管理人の日記 〜2000年7月〜先月日記トップ翌月
7月31日(?) 発掘体験館 〜群馬考古学の旅(3)

7月30日(?) 配石と耳飾り 〜群馬考古学の旅(2)
 だいぶ間が開いてしまったが、群馬旅行の2日目について書くことにする。今日、写真が出来上がってきたので少しだけ紹介したい。
 縄文時代の群馬県は南関東・新潟・長野・福島など隣接地域の影響を多く受け、おもしろいものが作られる。2日目の最初の目的地は月夜野町。
深沢遺跡配石遺構  まず見学したのは月夜野町郷土歴史資料館。ここには町内の遺跡の出土品や歴史・民俗資料が展示されている。目玉は矢瀬遺跡の出土品であろう。木柱は写真で見るとチカモリや三内丸山などと比べ小さいものだと思っていたが、実際に見てみると、そんなことはなくかなり太い柱だったことが分かった。きれいな土器や第2の道具がずらっと並んでいたが、中でも耳飾り・岩版・線刻礫は興味深い。矢瀬以外の町内の遺跡の土器や弥生の八束脛洞窟の資料などほかにも興味深い資料は多い。
 資料館を出て、深沢遺跡配石遺構を見学する。深沢遺跡は上越新幹線建設に先立ち76・79年に県埋文事業団によって調査され、環状に配置された縄文後期前半の配石墓群の東側の端が見つかった。この一部が移築・保存されているのである。石棺状のもののほか、長軸が2mを越すような石槨状の配石墓もあり、墓の種類の差が目についた。
 もう1つ、梨の木平遺跡の敷石住居も忘れてはならない。1976年群馬県教育委員会によって調査され、加曽利E4期の敷石住居1軒がみつかった。当時は保存状態が極めてよかったため、敷石住居の代表例としてよく登場する。県史跡に指定され、深沢の遺構とは道を隔てた覆屋の中で保存されている。だが、見て驚いた。ガラス張りの覆屋の中で、遺構はカビだらけ。現状は決して保存状態良好とはいえないものだった。中身はいいものなのに勿体無い...。とはいえ、この敷石住居は南関東でみなれた敷石住居とは違う。敷かれた石は平たく大きい。 矢瀬親水公園
 資料館などのある台地の下、利根川の右岸が矢瀬遺跡である。1992年、土地改良事業・都市計画道路建設に先立ち月夜野町教育委員会によって調査された。よく知られるように水場・配石群・木柱遺構などの祭祀場・共同作業場と、それを取り囲む居住域というムラの全貌がまとまった形でとらえられる遺跡として、96年に史跡指定をうけた。遺物については上述。遺跡は現在埋め戻されているが、周囲は矢瀬親水公園として公園化され、その一部としての史跡整備が計画されている。公園は史跡部分の他、矢瀬出土のモチーフをあしらったポールがたつ芝生広場や、矢瀬の地名の由来となった源義家像、湧水、わんぱく広場、バーベキュー棟などからなる。駐車場から「縄文の道」というトンネルを抜けると公園へ出る。このトンネルの中には「縄文風土器」の模型がある。決して縄文土器ではない。見たことも無い形のものもありびっくりである。ただ、土器片が両側の層の中に埋もれているなど妙に細かい所もある。史跡部分は現在建設中?の復元住居が見える程度でどのようなものになるかは分からなかった。

 それぞれ性格は違うが、「石」というものに同じような思い入れがあったのだろうか? 群馬の1つの町の中期・後期・晩期それぞれの時期の配石遺構を見て改めて感じた。


 次の目的地は榛東村耳飾り館。茅野遺跡で577点もの耳飾りが見つかったことをきっかけに、古今東西の耳飾りを集め、展示しているユニークな博物館であり、この村の観光の中心となっている。
 縄文の耳飾り。われわれの感覚では本当に耳飾り?と疑いたくなるような大きさのものも多い。直径3cm以上のものが耳に入るとは、どうしても納得できなかった。友人も納得できないという。しかし、この耳飾り館に来ればそんな疑問はふっとんでしまう。ロビーや「現代」のコーナーにこれでもかと飾られる世界各地の耳飾りをしている人々の写真を見れば認めざるを得なくなる。「世界」のコーナーにはヨーロッパ、アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカの各地から美しい耳飾りが集められている。
 「歴史」のコーナーでは明治から遡ってわが国の耳飾りのルーツを探る。資料がレプリカなのが惜しいが、あまり問題にはなるまい。
 つづいて、「縄文」のコーナー。茅野遺跡の出土品(92年国重文指定)を展示する。茅野遺跡は榛名山麓の台地上に広がる後期・晩期を中心とする集落跡で、1989年、圃場整備に先立ち村教委によって調査され、その後の確認調査も含め、水場を中心とする住居・配石墓などが検出された。(93年国史跡指定)。耳飾りのほか、東北との密接な関係を示す白色凝灰岩製の岩版など興味深い資料が多い。

 滑車形耳飾りや、さらに進んだ漏斗状透彫付耳栓。縄文晩期のこの地域独特の遺物だが、これらの中心は茅野遺跡そして、矢瀬遺跡、1日目に見た千網谷戸遺跡と考えられている。3遺跡の力関係や周囲の遺跡との関係も興味深い。
 だが、この問題を考えるには群馬の遺跡をもっと知らねばなるまい。(8/3)

岩宿遺跡・笠懸野岩宿文化資料館
 月夜野町(利根沼田広域市町村圏振興整備組合) ふるさとしんとう


7月29日(?) 観音塚古墳・観音山古墳 〜群馬考古学の旅(1)
 29日〜31日までサークルの研究旅行で群馬県内の遺跡・博物館等をまわってきた。3日間バスを借りてまわるもので、初日は高崎市で主に古墳文化を、2日目は月夜野町と榛東村で縄文文化、笠懸町で岩宿文化を、3日目は埋文行政を学んだ。これまで行きたくても交通の便の関係で行けなかった場所に行くことができ、幸せな時を過ごすことができた。

観音塚古墳石室より  初日は高崎市内の博物館と古墳。まず高崎市観音塚考古資料館へ。群馬県の古墳文化は東国随一であり、ここには国重文「上野国八幡観音塚古墳出土品」が収蔵・展示されている。また、今回の旅行でいろいろお世話になったサークルの先輩が勤務されている所でもある。
 八幡観音塚古墳は古墳時代後期の群馬県では最後の大形前方後円墳。昭和20年に開口され、椀や鏡・馬具・武具など多数の品が出土した。古墳の出土品についてはあまり興味はないのだが、地元の遺物を思い出しながら太刀や馬具などを見学した。また、観音塚出土品のほか、高崎市内の縄文〜古墳の遺物もいくつか展示されている。若田原遺跡などの縄文土器もじっくり見ることができた。
 その後、観音塚古墳を見学した。まず石室に入ったが、思っていた以上に広い。そして使われている石もでかい。古墳の周囲には住宅が立ち並んでいるため、残念ながら全容はカメラにも収まらない。木々に覆われた小山のような古墳が家々の間から姿を見せるのを見るとその大きさが知れる。前方部には名の由来となった馬頭観音が今も祀られている。後円部や石室入り口にも石塔があり後世の信仰を窺わせるのも興味深い。

 次の目的地は群馬県立歴史博物館。高崎市内の群馬の森のなかに1979年に開館した。ナウマン象の時代から第二次大戦後まで、広く群馬の歴史を扱っている歴史系総合博物館である。最新資料はあまり収蔵されないし、複製品も多いが群馬県の歴史を概観するには非常に便利な施設である。
 考古展示の目玉は綿貫観音山古墳出土品であろう。金製勾玉・ガラス製勾玉・小玉、金銅製半球形飾りといった装身具、百済の武寧王陵出土品と同型の獣帯鏡、国内唯一の銅製水瓶などの出土品は東アジア各地との交流を示す。また、露出展示されている巫女・楽人・貴人・武人などの埴輪は古墳祭祀の様子を垣間見せる。
 さて、こうした古墳遺物も見ていて面白いが、やはり私としては縄文である。三原田遺跡の復元模型や、「これは洗えないよね」という注口土器についての友人の一言、精神文化のコーナーにある独鈷石に付いた「独鈷状石斧」という説明、これまで見たことの無かった上野村向屋遺跡出土の線刻礫(狩猟を表すというが、人物や弓矢の他、1つ謎の物体が描かれていた。何をあらわしているのだろう?)など探してみるといろいろ面白いものがある。一方で、楽しみにしていた千網谷戸の耳飾りが少ししか展示されていなかったのは残念であった。

観音山古墳前方部の先輩たち  この後、観音山古墳に移動した。本稿では事実関係については旅行の「しおり」の解説を参考にしている。サークルの1年生が調べたもので、県博を担当したのは私だが、恥ずかしいことに、この時点では観音山と観音塚が混乱していた。だが、出土品や現地を見てみるとそれなりに様相が異なるのが分かる。ここはきれいに整備されており、一面芝生に覆われている。思わず「すべりたい」と思ったが、それは禁止されていた。頂きに上ると古墳の全体が見渡せ、またしても大きさに感動する。それにこちらは非常に展望がいい。県内最大という石室には入ることができなかったのは残念であった。
 この日の見学はこれでおわり、川場村のホテルSLへ。今日見てきたことを話し合ったり、明日に向けてゆっくり休む、などということはなく、夜遅くまで遊ぶことになる。(8/1)

 群馬県立歴史博物館 高崎市:高崎の文化財   (付記:00/8/8 写真掲載)


7月28日(木) 大集落のあった台地〜多摩ニュータウン遺跡群No.72遺跡
 ようやく前期試験も終了。
 26日、先生につれられて、東京都埋蔵文化財センターが調査している多摩ニュータウン遺跡群のNo.72遺跡(東京都八王子市堀之内)を見学した。古くからニュータウン地域の代表的な遺跡として扱われ、今年の「新発見考古速報展」の東京地域展示「縄文空間」でも取り上げられていた遺跡である。
 大栗川上〜中流域左岸の舌状台地上、約57000平方メートルに広がる縄文中期を中心とする大集落跡で、1987年度から断続的に7次の調査が行われた。これまでに200軒以上の住居が見つかっており、中央部の保存地区・切通で破壊されていた部分を含めると300軒を超えると思われる。旧石器時代・縄文草創期、古代の遺構・遺物も出土しているほか、昨年度の調査では前期の住居も見つかってきている。
 事務所で前期(花積下層式)の土器片、埋甕に使われた中期の土器、ミニチュア土器、三角柱状土製品、耳栓など興味深い遺物をじっくり見せていただいた。このうち三角柱土製品はこれまで実際に手にしたことは無く、今回大きさや重さなどの感触を味わった。装身具の一種なのか? 今回のものは模様も無く、またそれなりに重い。簡単に解決するものではないだろうと感じた。
 この後、現場に案内していただいたが、非常に残念なことに、この日は現場は休み。住居跡の上に被せられているビニールシートが一面に並んでいるのを見学した。遺構が見られなかったのはなんとも言えず悔しいが、仕方が無い。広々とした台地の立地や傾斜、景観(南側はビルばかりだが)などを感じ取ることにした。遺構が見られなかったので遺跡の見学といえるか問題だが、このような台地がはがされている現場は初めてで、当時の景観を考える上ではいい機会だったと思う。
 この遺跡は10月に現地説明会が開かれる予定ということである。もう1度は行ってちゃんと遺構を見てこようと思う。
 東京都埋蔵文化財センター公認私設ウェブページ:各遺跡の最新情報(99/7/17・00/06/18現在の最新情報あり)
 00.8.16 前期住居検出が今年度とあるのを昨年度に訂正。掲載許可を頂きました。


7月27日(木) 奥多摩の中期集落の調査
 調査終了が近く忙しいということで急遽呼び出しをうけ7月20日〜21日・24日〜25日の3日半、東京都奥多摩町の遺跡の調査に参加してきた。私にとっては初発掘である。
 2日目までは土坑を掘った。ローム層と覆土の土の違いはすぐに分かる。だが、覆土が3層になっていると言われても見ただけでは分からない。それでも実際に掘ってみると僅かに差があるような気もする。3日目・4日目は住居に残っていたベルトの部分の調査。土器・石器はほとんどなく、出るのは角礫ばかり。忙しい現場で、詳しい説明も聞けなかったが、縄文中期の大集落であるという。山奥の縄文人は大変興味深いので、機会があれば詳しく調べたい。
 8月中ごろまで調査は続く。極僅かな期間で抜け出してしまった私だが、発掘というものや調査の流れなど少しはわかったのだろうか。来月からは地元での調査に参加する予定だが、その準備にはなったような気がする。


7月14日(金) 考古学サイトの更新情報
 当サイトもなんとか10000アクセスを迎えることができた。見に来てくださっている方の期待に添えているか心許ないが、今後もよりよいサイトを目指していきたいと思う。
 ところで、光坊氏の「高地の縄文探訪」も最近10000アクセスを迎えた。同氏のサイトは、高地県内の遺跡紹介、論文、データ集成などの独自のコンテンツの他、CGIを利用した考古学サイト検索や、サイト人気投票など非常に面白い企画がある。考古学サイトを運営している人は一度はこのようなものを考えたのではないだろうか。
 申し訳ないことに私がこの存在を知ったのは今日なのだが、先週から「考古学系サイト更新情報」というコーナーが登場していた。これは一行掲示板を利用したものである。

 考古学サイトは既に完璧なリンク集が存在し得ないほどの数になってきている。更新が頻繁に行われているサイトは毎日チェックしているが、そうでないサイトの場合は折角おもしろいページが追加されていても、なかなかわからない。
 このような状況の中で、青森遺跡探訪東京都埋蔵文化財センター公認私設ウェブページでは更新情報をメールで送るサービスを行っている。また、arc-net EVENT NEWS考古学通信Miyagi Archaeology Newsなどは情報提供をもとに考古学サイトの更新情報を掲載している。さらに考古学のおやつでは、一部であるが他サイト掲載のニュースを採録している。
 私は、このサイトを立ち上げた当初、「考古学情報メーリングリスト構想」を提案した。賛同の声も少なからず頂いたのだが未だに実現していない。しかし、ここで提案した内容のうち、関連文献の情報、学会・講演会・シンポジウム・展示会などの開催情報については上記のサービスでほぼ実現しているし、調査情報もかなりの部分が把握できるようになってきている。
 残るはサイトの更新情報だけである。サイトの更新は日々行われている。だが、前述のサービスに載るのは極僅かである。この理由については私自身の経験からいくつか考えることができる。まず、更新といっても語句の訂正から新ページの追加までさまざまである。どこまで知らせたらよいのかわからない、という問題がある。
 だが、多くのサイトの場合「更新履歴」のようなページや、更新情報のコーナーがある。ということは、第1の問題はある程度クリアできるということであろう。では、次の問題は何か。それはただ更新した個所の紹介だけではなく、多少のコメントを加える必要があるように感じられるからではないだろうか。そして、それを一々メールやフォームを使って送らなければならないということである。これらは面倒である。
 今回の光坊氏による「考古学系サイト更新情報」のいいところは、きわめて簡単、シンプルだ、という点である。前述したように一行掲示板を利用しているので、更新したページのタイトルと、リンク先を書き込むだけでよい。コメントやメール・フォーム送信の手間はない。投稿者による削除機能と、クッキーを使ったサイト名とURLの記憶機能がつけば文句はない。

 考古学サイトを運営している皆さん、このすばらしい企画に一緒に参加しようではありませんか。

 高知の縄文探訪:考古学系サイト更新情報


7月11日(火) 北米北西海岸の考古学

 本日、國學院大學文学部講演会が開催され、「北米北西海岸考古学の最近の成果について」と題するポートランド州立大学人類学部のKenneth M Ames 教授による講演を聞いてきた。通訳は羽生淳子先生であった。
 以下、メモをもとに内容を簡単に紹介したい。(聞き間違い・解釈ミスなどあるかもしれませんが、予めご了承ください)

 まず、彼らのComplex Hunter-Gatherersとしての特徴を紹介する。householdが社会的・経済的単位であること、人口密度が比較的高いこと、居住的に安定していること、集落作りに時間・労力をつぎ込むこと、自然を人為的に保護すること、複雑な技術を持つこと、分野毎の専門化がいること、交易・ネットワークがあること、社会的な不平等があること、などである。

 次に、民族誌に基づき19世紀の彼らの社会を具体的な項目をあげる。
 ・集約的生業:幅広い食料資源、貯蔵、環境管理、小規模な庭、貯魚池
 ・Household production:社会的・経済的・文化的単位。15人〜1500人で家の大きさも10m〜200m。地位の差があった。
 ・安定した居住:食料貯蔵など(他は聞き取り・書き取りできませんでした)。村の人口は100人〜2000人。各家が直線的に配置される。 
 ・専門家の存在:家の中に工芸をはじめ狩猟・漁労などの専門家がいる。
 ・戦争
 ・芸術:地域差があった。これらは交流ネットワークの違いを示す。また、仮面・トーテムポールなどは権力・地位の象徴ともなり、社会階層とも密接な関わりを持っていた。
 ・社会階層:自由な人と奴隷に分かれ、前者はさらに首長層(多量の財を管理)、一般の人(少量の財を管理)、財産を持たない人に分かれる。首長層は奴隷の所有者で奴隷に対しては絶対的権力を持つが、その他の人に対しての権力はそれほどは無い。家の統括や交流を担う。
 これらの諸文化の形成の要因について人類学者・考古学者は、環境(良化)・人口増加・貯蔵化などを想定しているが、1つの要因だけでなく複数の要因が重なった結果であろう。
 
 さらに、こうした文化の成り立ちを考古学的資料を使って辿る。考古学的に約一万年前まで辿ることができる。
 初期の段階は 舟・網・釣などの要素が見られ、長距離交易の痕跡はあるが、人口密度は低く、移動的である。
 BC4000年頃になると大貝塚や組合わせ式銛などが登場し、定住が始まるとみられる。
 BC2500年頃には階層の分化がはじまり、
 BC1850年頃にははっきりとした階層の痕跡が見つかる。墓地には限られた人のみが埋葬され、副葬品を持つのはその中の10%、さらにその内の極限られた人が特殊な副葬品を持つ。家と家の間、村と村の間の差も認められる。また、木製の箱や大形の住居の登場、漁労具の変化などによって集約的な生業も行われ始める。また、この頃には地域間ネットワークはほぼ完成している。
 その後も時間を経るにしたがって変化は続く。
 北西海岸は日本列島よりも長い。まだまだ学者が訪れていない地域もあり、今後の研究が待たれる。

(Complex Hunter-GatherersやHouseholdは羽生先生は便宜的に訳されたがここではそのまま表記した。)
 北西海岸のインディアン社会については古くから縄文社会を復原する際のモデルとして関心が払われてきた。ただ私自身はあまり詳しくは知らなかったので、今回の話は興味深く拝聴した。そして、この社会が縄文と共通を項を持ち、その復元に参考になるにしても、比較の際には違いについてもきちんと認識しなければならないことを知った。

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