管理人の日記 〜2000年9月〜先月日記トップ翌月
9月25日(月) 縄文王国の縄文博物館〜信州の旅(4)
 9月8日は昼まで友人の家にいて、お昼を食べてから出かけた。前日の夜までどこに行こうか考えていたのだが、茅野市尖石縄文考古館へ行くことにした。茅野駅〜尖石考古館のバスは1日3本。13時50分のバスに乗り尖石へ向かう。
 初めて旧尖石考古館を訪れたのは今から4年前。同じ年の「縄文のビーナスたち」も見にきたが、それ以来である。今年7月にリニューアルし、名称も茅野市尖石縄文考古館と変わったが、だいぶ大きくなっていた。まだ新築の香りが漂う。入館料は大人500円と高めだがそれだけの価値のある博物館である。広い館内は1〜4の常設展示室と学習コーナー、特別展示室、ガイダンスルーム、テラス・ミュージアムショップなどで構成される。地下は整理・収納スペースである。

〈展示室1:特別史跡尖石遺跡〉
 尖石・与助尾根遺跡についての展示である。尖石遺跡は八ヶ岳西南麓の台地上の明治期から知られた縄文中期の大集落である。遺跡の南斜面にある「尖石」とよばれる岩から名づけられた。1929年に伏見宮が調査に訪れ、宮坂英弌氏もこれを手伝った。以後宮坂氏は周辺の遺跡の調査を手がけ、1940年から本格的に尖石の発掘を行い集落の様相を明らかにした。尖石遺跡は42年に史跡、10年後には特別史跡に指定された。その後も宮坂氏は沢を隔てた与助尾根遺跡の調査を開始、52年までにほぼ全域を発掘した。この尖石・与助尾根の研究は登呂遺跡などと並ぶ戦後の考古学の出発点であり、縄文集落論の原点となった。55年には現在の豊平公民館の場所に尖石考古館が設けられ、その後79年に考古館は現在地に移った。そして95年の棚畑遺跡の土偶が国宝に指定されたことを契機に、収蔵・整理のスペースをもった新しい博物館が計画されたのである。一方尖石遺跡では確認調査が行われ、周辺一帯で180軒以上の住居が見つかっている。
 展示室内には蛇体把手付深鉢や有効鍔付土器、妊娠土偶、線刻石をはじめとする尖石・与助尾根の両遺跡から出土した土器・土偶などが並べられている。壁には尖石研究のあゆみや今後の整備についてのパネルがある。ただ、以前の展示ほどの詳しさはなく、少し物足りない気がする。この点は図録にも言えることで、全体の解説は多くなったが、尖石についての記述は簡略化されてしまっている。戦中・戦後の調査の苦労や考古学史・縄文時代研究史における意義などについてもう少し触れて欲しかったと思う。

〈展示室2:国宝 土偶〉
 国宝「縄文のビーナス」を中心に、一方には西ノ前、上黒駒、風張、亀ヶ岡などの重文土偶のレプリカを、もう一方にはこの地方出土の土偶が展示されている。黒を基調とし、光を落したこの部屋は土偶の神秘さを十分感じさせるものである。ここには「ビーナス」の名をもつ海外の土偶のレプリカも展示されている。すっかりこの博物館の主役となった「縄文のビーナス」だが、ここに中ッ原の仮面土偶も加わればまたすごいことになりそうである。
 この一室は博物館というより美術館といった方がいいだろう。他の土偶も含めその造形の美しさをじっくり鑑賞するにはもってこいの場所である。しかし、土偶はやはり重要な考古学的資料である。棚畑遺跡という大規模な調査が行われた環状集落中央部の土坑からほぼ完形で出土したという状況的な意義や八ヶ岳山麓に分布する他の土偶との関連などについて別室でも良いので詳しく解説していただければと思う。

〈展示室3:八ヶ岳山麓の縄文遺跡〉
 足を踏み入れて感動した。この部屋はすばらしい。「縄文王国」を名乗る茅野市には縄文中期を中心として非常に多くの豊かな遺跡が存在する。まだまだ台地上には遺跡が眠っているのだろうが、この部屋には市内から出土した資料が所狭しと並んでいる。そしてこれらのをもとに縄文文化について解説している。
 部屋の中央部分は6つに区切られていて棚畑遺跡出土の土器群、勝山遺跡出土資料、まつりの遺物、中ッ原遺跡の土器群などが展示されている。しかも、細かい遺物を除くとほぼ全て露出展示である。さすがは縄文王国。ダイナミックな文様を持つ深鉢、大きな土器・大型石棒・釣手土器・注口土器・土製品・石製品などバラエティに富む縄文世界の豊富な資料を間近で存分に味わうことができる。
 壁の展示はガラスケースの中だが、土器の移り変わりや縄文の暮らしなどの展示があり興味深い。

〈展示室4:縄文時代のくらし〉
 松本の考古博物館のところで、体験コーナーについて触れたが、この考古館でも展示と並んで体験を重視していて、学習コーナーとあわせて広い面積を占めている。縄文服が何着もハンガーに懸かっていたりしていておもしろい。かなりのスペースだが閉鎖的な空間でなく、展示室と一体となっているところが良い。土器や土偶なども粘土で作れるのだが、出来上がったものが棚に並べられていた。
 私の所属するサークルでは学園祭で縄文の体験コーナーを催すことになっている。体験コーナーというと今までは展示のおまけ程度にしか考えていなかったのだが、7月の群馬、8月の新潟、そしてこの長野と3県の博物館で体験コーナーを見学・体験して、やってみると面白いものだということ、やりたくなるような雰囲気作りが大切だということ、いろいろ種類があったほうがいいことなどを感じた。

 館の北には与助尾根遺跡が広がる。前回訪れたときは、考古館からひっそりとした小さな沢を渡り、斜面を登っていくとブナの林に囲まれた復元住居群が見えてきた。そこは、今にも縄文人が現れてきそうな雰囲気のあるところで、すぐに気に入ってしまった。このサイトのタイトル画像にも使用している。復元住居群を持つ史跡公園は多いが、与助尾根のように大自然の中、林に囲まれたムラはどれほどあるのだろうか。佐原真も『大系日本の歴史1』で「全国各地に増えた復元住居の中で、最も雰囲気のあるところ」と書いている。
 今回のリニューアルに伴って、この住居群も建て直された。だが、その景観は以前の林に囲まれたムラのイメージとは異なった印象をうけた。かなり開けていて考古館からその姿が見えてしまう。かつてのひっそりとした感じがない。もちろん以前のものではあまりにも木が多すぎたのかもしれないし、新築の住居は時間がたてば落ち着いてくるのかもしれない。この与助尾根の復元住居は1949年に堀口捨己氏によって設計された。研究の進んだ今からみれば問題点が指摘されているが、長年親しまれてきたということで今回も同じ設計で建て直された。一方、今後行われる尖石の整備では最新の成果を盛り込んだ住居が計画されているという。このほか、ちょっと離れた場所には温泉の建設も行われている。与助尾根のさらに奥には青少年自然の森という施設もあり一帯が史跡公園として整備されるようである。その際は安っぽい観光地にならぬよう、豊かな自然を活かし、縄文の雰囲気を十分感じさせてくれる公園づくりを期待したい。

 この夏、新潟と長野で2つの縄文博物館がオープンした。火焔形土器を擁する新潟県立歴史博物館は全国的・さらには世界的というマクロな視野で縄文を語っている。一方この尖石縄文考古館では諏訪地方の地域史的考古学研究の伝統を受け継いでミクロな視点で縄文文化を感じさせてくれる。訪れたときは博物館実習が行われていた。つまり、まだ展示をつくっている最中である。遺跡ではまだ案内板が取り付けられていない。できたてほやほやの縄文博物館の一層の充実を期待したい。
 茅野市尖石縄文考古館


9月9日(土) 松本市立考古博物館〜信州の旅(3)
 塩尻を出たのは12時半ごろ。当初は朝日村歴史民俗資料館・縄文の村へ行こうと思っていたのだが、バスは既に出ており松本へ戻ることにした。松本市立考古博物館は市街地からはだいぶ離れたところにある。バス(中山線)に乗り、中山霊園口で降りる(片道380円)。そこは松本市東南部に広がる東山の山麓で市街地が見渡せる眺望の良い場所であった。古代の牧の役所跡などを見ながらしばらく行くと博物館はある。
 展示室は2階部分で、まずエリ穴遺跡の耳飾と人面付土版が迎えてくれる。展示室内に入ると中期の土器が置かれた森のジオラマ。竪穴住居もある。内部には土器・石器や毛皮・麻などの材料などが展示されている。続いてガラスケースで、中期を中心とする遺物が置かれているが、なかでも長さ5cmばかりのミニ石棒には驚いた。振り返ると復元住居がもう1棟あり「体験の館」という看板が掲げてある。粘土への文様つけ、土鈴を鳴らす、石皿で穀物をすりつぶすなどのほか、石器で電話帳を切ってみる切れ味体験もあった。リーフレットによると小学校高学年を対象とした展示だという。
 弥生・古墳・古代のコーナーが続き、最後に土器接合体験のコーナーもある。完成写真があるのだが、細かく割れている部分もあって難しそうであった。時間があったのでチャレンジしてみたが、全ての破片があるわけでもなかったので(実戦ではその方が多いのだろうが)途中で断念した。階段部分には弓矢の体験コーナーもあり、館外には古墳期と縄文期の復元住居が立てられていた。
 小さいながらもなかなか充実した展示であるように思う。この博物館のある中山地区は古くから遺跡のある地として知られていたところで(元禄年間の記録に古墳の記事(県内最古)あり)、1931年には小学校内に考古館が設けられ、その後中山考古館、さらに現在の市立考古博物館へと至っている。1958年には大場磐雄先生が考古館の資料を整理され、4年後に『中山考古館案内』としてまとめているらしい。
 市街から外れたこの博物館が、そのような古い歴史をもつとは驚いた。いや、先の山岳博物館にしろ、後述の尖石考古館にしろ、長野には地元に密着した博物館が古くからつくられてきたことを思えばそれほど驚くべきことではないのかもしれない。体験コーナーを広く持ち、小学生を重視した展示というのはそうした教育県の伝統が、今なお生きている証であろうか。


9月8日(金) 平出遺跡と塩尻の縄文遺跡〜信州の旅(2)
 翌日は塩尻へ。駅から15分ほど歩くと平出遺跡である。どうやら駅で自転車を借りられたらしいのだが、気づかなかった。この遺跡は奈良井川の扇状地上に位置する縄文〜古代の大集落跡で、今から50年前の1950年から翌年にかけて7次の調査が、これまた大場磐雄先生を中心として行われ、52年に国史跡となった遺跡である。79年以降は遺構確認や史跡整備のための調査が続けられた。その結果、縄文時代では中期の住居45棟、後期の敷石住居2棟などが検出されている。
 現在遺跡の大部分は葡萄畑など田畑となっているが、その一角に「平出遺跡史跡公園」として整備されており、古墳時代の竪穴住居が1棟復元され、2棟が表面表示されている。ここから10分ほど歩くと「平出歴史公園」である。平出のムラを潤したと思われる湧水−平出の泉を見ながらしばらく行くと塩尻市立平出博物館に着く。

 まず「平出遺跡展示室」がある。この展示の中で注目すべきはロ号住居出土の埋甕と平出3類A土器であろうか。埋甕は高さ65cmという大きなもので、大場先生によって幼児埋葬説が提唱された埋甕研究の出発点という記念すべき土器である。市の文化財指定を受けている。それにしても大きい。例えば私の地元伊勢原でも埋甕は何例もあるがこれほどの大きさではない。埋甕については良く知らないが、大きさによって用途に違いはあるのだろうか。平出3類A土器は「見慣れない土器だ」と感じたもので、どうやら松本平を中心に分布しているらしい。室内には古墳時代・平安時代の資料も展示されているが、平出調査のきっかけとなった緑釉水瓶(県宝)は美しい。

 続いて「塩尻の原始展示室」。塩尻の縄文遺跡といえば平出と並んで俎原遺跡が有名だが、剣の宮・柿沢東・小丸山・峯畑・小段な ど中期を中心に多くの遺跡の資料が展示されていた。峯畑遺跡の住居一括土器群など信州の土器は見ていて飽きない。釣手土器も面白い形のものがある。
 このほか、銅鐸や土偶型容器などの弥生の資料もある。また「古代展示室」「中世展示室」「民俗展示室」などもあるが省略する。ただ忘れてはいけないのが、ロビーに展示されている焼町遺跡出土の焼町土器。さすが標識遺跡の土器も美しい丁寧な文様を持っている。

 さて、先日大学に行った時にこちらの学芸員の方を紹介して頂いていたのだが、さらにここで館長の小林康男先生、そしてたまたまいらしていた樋口昇一先生を紹介していただくことができた。平出調査のお話や、茅野の中ッ原遺跡の仮面土偶のお話などを伺った。
 館外には平出遺跡の3号住居が復元されている。1951年、日本で初めての復元住居であるという。また高床倉庫の復元や平出古墳群、菖蒲沢窯跡の復元などもあり、また見逃してしまったのだが、大場先生や折口先生の歌碑もあるということである。


9月8日(金) 上原遺跡の環状石籬〜信州の旅(1)
 9月6日〜8日まで長野県へ行ってきた。久しぶりの一人旅、夜は信州大学へ行っている友達のところ(松本)に泊めてもらい、大町・塩尻・松本・茅野の遺跡・博物館をまわった。

 初日は新宿8時発のスーパーあずさで一挙に信濃大町へ、という予定だったのだが、8時までに新宿へつけず、次の特急で松本まで行き乗り換えて大町へ。大町での目的地は上原遺跡。立山・黒部アルペンルートの長野側の入り口である扇沢行きのバスに乗り、途中の大町温泉郷で降りる(片道510円)。実は次のバス停の方が近かったのだが、バス通りを西に向かって歩いていくと南へ張りだしている尾根が見える。めざす上原遺跡はその尾根の斜面に位置する。

 上原(わっぱら)遺跡は1942年に地元の人によって発見され、1951・52年に大場磐雄先生を中心に調査が行われた。その結果、前期の集石と立石群、小竪穴などが見つかり、立石群は大場先生によって2基の環状石籬として想定復元された。ちょうど文化財保護委員会による大湯環状列石の調査などが行われた時期であり、戦後の配石遺構研究の出発点の1つである。1960年に県史跡に指定された。ただ、当時知られていた分布圏からは外れており、しかも前期ということで阿久遺跡発見までは配石遺構の中ではかなり特異な存在だったという。

 そんなことを思い出しながら歩いていくと田園の中に柵で囲まれた一角が2箇所見えてきた。1つは環状石籬で、もう1つは小竪穴である。小竪穴の方は、かろうじて凹みが残っている程度であったが、環状石籬の方はしっかりと立っていた。径3m〜1.5mくらいの小さなサークルであった。
 遺跡の景観についていろいろ指摘されるようになってきていることから、私もこの場所から周囲を見回したり、少し離れたところから遺跡を望んだりした。しかしこの日は曇り空。北アルプスの山々はほとんど見えない。近くで農作業をしていた方に山の名を聞いたが、晴れた日は比べものにならないほど山が美しいということだった。なんとも残念だが、こればかりは仕方あるまい。
 この遺構が中期以降のいわゆる環状列石と関係があるのかどうか。前期の資料はまだまだ少ないし、未調査のまま遺跡周辺の開拓が行われてしまったこともある、それに本当に環状だったかどうかも不明であるので、なかなか難しい問題のようである。実際に見れば何か得るところがあるだろうと思って来てみたが、遺跡の環境は別として環状石籬そのものについては謎はあまり解けなかった。

 さて、この遺跡から出土した資料が大町山岳博物館に保管・展示されているというので駅へ戻り、そこから25分くらい歩いて博物館へ行ってみた。ところが、「近世以前の山と人」を考える資料として僅かな土器・石器・石製品・環状石籬のパネルが展示してあるだけであった。たまたま博物館へきていた教育委員会の方によると、資料は国学院大学にあるのではないかということだったので、休みが明けたら調べてみたい。ただ、この博物館は「山と人の関わり」をテーマとし、・御嶽教などの信仰関係の資料や、明治以後のレジャーとしての登山のあゆみ、その道具類、そして日本アルプスに棲むさまざまな生き物について紹介されておりなかなか面白い。

 上原遺跡は今なお配石研究上特異な存在であるといえそうである。石を使った祭祀の系譜をたどるにはこの遺跡は重要な鍵を握る。周辺の遺跡が残っているかどうかは分からないが、大町市内からは中期の環状配石も出土しているので、この地域からの新資料の出現を期待したい。
 市立大町山岳博物館(私の行った日のアルプスの写真が出ています)


9月1・2日(金・土) 残したい田端遺跡の景観
 多摩ニュータウンNo.72遺跡の見学後、事務所で「配石が好きなんです」などという話をしていると、田端遺跡で調査が行われていることを教えていただいた。
 田端遺跡はNo.72遺跡からは1つ山を超えた町田市小山の斜面上に所在する縄文後期の墓地の上に作られた晩期の環状積石遺構(都史跡)が見つかった遺跡で、積石遺構が公開されている。縄文遺跡をまわり始めた中学3年の始め頃に訪れ、そこから望む丹沢の山々を含む回りの風景や土器の拾える隣接する畑、駅から遺跡までの風景に惹かれ、以後毎年のように通った遺跡である。受験などがありここ数年行っていなかったが、今回行ってみて驚いた。まだニュータウン開発は、幹線道路しかないような場所だったが、小さな駅のまわりは立派な公園や大型店舗が立っていてそのイメージはかなり変わっていた。
 遺跡へ急いだが、遺跡周辺はそれほど変わってはいなかった。ただ、南側の道路に面した畑の部分が調査されいたのは驚いた。今、積石遺構の北側には住宅が建っているが最初に訪れたときはなかった。この遺構は丹沢蛭ヶ岳と太陽運行との関係が指摘されている。まわりに建物が建ってしまったら、そのような景観は一変してしまう。
 そんなことを考えながら、調査現場へ向かった。残念ながら調査担当者は不在であったが、作業員の方が遺物の取り上げなどをされていた。聞けば市の公園のための調査で、既に西側も調査が行われていたという。それを聞いてほっとした。多摩ニュータウン開発がいつまで続くのかは知らないが、この遺跡を取り巻く景観はずっと残しておいてほしいと思う。

 さて、祖母の家に泊めてももらい、翌日の午前中に杉並区立郷土博物館を見学した。あいにく用事があるらしくゆっくりお話は聞けなかったが、ここには大学のOBの先輩が民俗担当としていらっしゃる。常設展のスペースは一室しかないようだ。旧石器〜現代までの杉並の歴史を語るには少し狭いようにも思う。考古学関係では下高井戸東遺跡の旧石器、向ノ原B遺跡の草創期の土器、下高井戸塚山遺跡の中期の土器群、大宮遺跡の弥生土器などが展示されていた。松ノ木遺跡から出土した夏〜秋に活動するチマダニの圧痕のついた土器片という面白いものもあった。秋〜冬に土器が焼かれたことを示すといわれている。戸塚山などの土器は半露出展示であった。周囲はガラスケースでも上部が開放されているとだいぶ印象が違う。土器を身近に感じることができるように思えた。

 午後は、先日ご案内した奥三面の映画上演会・シンポジウムに行ったのだが、それは改めて書くことにしたい。

9月1日(金) 多摩ニュータウンNo.72遺跡(2)
 7月28日に雨で現場の見学ができなかった多摩ニュータウンNo.72遺跡を再び訪れた。87年に第1次調査がはじまり、今年度(第8次)調査で終了となる。先月までの合計で前期の住居16、中期の住居264、墓壙136、埋甕34が見つかっており、調査区域外(保存地区・切通部など)を含めると300棟を越える有数の大集落となる。

 前回もお世話になった担当者の方に遺跡を案内していただいた。残っている遺構全てが見られたわけではないが、調査途中の住居を10棟以上は見ることができた。道路幅の調査などでは住居の一部分しか調査しないことも多いので、これほどの数の住居が調査されているのは初めてである。思った以上に大きい。勝坂期、加曽利E期それぞれ細分されるが、各時期によって炉の型式や柱穴の配置などが異なるという。面白く見せていただた。タワーにも上げていただき、遺構の配置状況を確認することができたのも楽しかった。
 ある住居からは多数(30個以上?)の土器が廃棄された状態で見つかっていた。現説のため、そのまま残してあるという。見た瞬間はっと思い息を呑んだ。立派な深鉢がその形がわかるような状態で埋まっている。これまで埋甕を除くと、破片ばかりで完形の深鉢はほとんど見たことはなかった。それがまとまって出土しているとは。また別の住居でも勝坂期の器台が床面から出土している状態を見ることができた。器台も多摩ではいくつか出ているようだが、私としては珍しいものであった。何のために使ったのだろうか。
 同時期に存在した住居がどの程度の数になるのか。これだけの住居が残るほどこの台地に住みつづけたのはなぜだろうか。遺構の配置状況や、遺物などは既に調査された東側部分と今回の西側部分で違いが見られるという。これは何を意味するのか。周辺の遺跡との関係はどうなっていたのか。この遺跡を見て説明を伺いさまざまなことを考えた。

 お礼をこめて宣伝しておくが、この遺跡では9月20日(水)に現地説明会が開かれる。多摩ニュータウンはもとより東京周辺でこれだけの規模の調査が行われることはないだろうと言われている。大集落の調査を見るのは最後のチャンスかもしれない。ここに書いたものの他にも見どころはたくさんある。ぜひ行かれては、と思う。(00/9/4)
 東京都埋蔵文化財センター公認私設ウェブページ:催し物のご案内


8月30日(水) 土坑に横たわる大型仮面土偶〜茅野市中ッ原遺跡
 8月28日、「茅野から土偶がでたらしいよ」という母の声。縄文ビーナスを出した茅野から土偶が出ることは別に驚くに値しない。だが、朝日新聞夕刊を見て驚いた。あのビーナスと同じ体勢ではないか。しかも、予想に反して後期の大型土偶である。詳しい情報を求め早速、信濃毎日新聞のサイトを開いた。30日に一般公開し、すぐ取り上げてしまうらしい。「行ってらっしゃいよ」という母。交通費まで出してくれることになった。

 新宿発の高速バスで、まずは岡谷に向かった。見学会は午後からである。せっかくなので美術考古館を見ておこうと思ったのだ。小さな資料館であるが、花上寺遺跡出土の縄文土器がずらっと並ぶ。無論中期の土器が中心である。やはり諏訪地方の中期の土器はすごい。重文の海戸遺跡の顔面把手もある。3月に話題になった清水田遺跡の石皿もあった。
 茅野駅から遺跡まのバスは予想外の込みよう。みな遺跡を見に行く人たちだ。年配の方が多い。この前推古天皇陵を見てきただの、秩父はすごかっただのと、いろいろ回っている方々がいるらしい。20分くらい乗って、花蒔公園前という停留所で降りると既に長蛇の列。午前中からきている人もたくさんいるのだろう。土偶を見られるまで一体どのくらいかかるのだろうか。地元の小学生もいた。一度遺跡のはじまで行き、そこで折り返す。ここで説明会資料を頂いた。

 中ッ原遺跡は、茅野市湖東の八ヶ岳から西側に広がる尾根上の台地上に位置する縄文時代中期前半〜後期初頭の集落跡。これまでに昭和初期から数回の調査が行われている。昨年度に引き続き、圃場整備に先立つ調査が4月から行われていた。北側部分がある程度終了し、南側部分を東端から調査し始めたところで、土偶が出土したのである。この場所は環状集落の中央部分にあたり、墓域として使用されていたらしい土坑群が検出されている。このうちの1つで23日、大型仮面土偶が姿をあらわしたのである。
 土偶の出土した土坑は深さ45cm、幅1m、長さ1.3mで、少し埋め戻した後径50cm程度の穴を掘り土偶を横たえたようだ。土偶は高さ35cmのいわゆる仮面土偶で、このタイプでは最大の大きさとなる。頭は西側にあり、顔は北を向く。

 40分くらい待ってようやく順番が回ってきた。調査担当者の説明を聞きながら覗き込む。かなり遠く細かいところまでは分からない。実際に見られたのは30秒くらいだったろうか。27日から警備員をつけているというし、調査の予定もあるだろうから今日中に取り上げるという。調査途中なので遺跡説明会ではなく土偶だけの見学会である。少ししか見られないのは残念だが、それでもこのような出土状態が一般に公開されるというのはいいことだ。しばらく遺跡のまわりを見て駅へ戻る。帰りがけ、諏訪市の図書館で新聞記事をチェックしたが、今日の長野日報では一面トップに「仮面ビーナス今日一般公開」、信濃毎日新聞では文化面・諏訪地方版・社説で取り上げている。この2紙は駅前のコンビニで入手することにし、28日・29日の記事をコピーした。その他各紙も大きく取り上げており、地元の方々に「見に行かねば」という気にさせるのは十分である。自宅に戻り長野日報のサイトを開くと、見学者は4000人ということであった。

 わずかな時間だったが、貴重な出土状況を実際に見ることができて感激した。そして大勢の一般の方が見に来ているのを間近に見たのもいい経験であった。
 今後土偶自体の観察、分析や土坑などの精査、科学分析が進み、土偶研究を発展させるだろう。また、従来圧倒的な中期の蔭に隠れていたこの地域の縄文後期を考える大きなきっかけとなることは間違いない。

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