管理人の日記 〜2000年12月〜先月日記トップ翌月
12月26(火) 奥高野の民俗調査
 20日から23日まで、所属する民俗学研究会の民俗調査に参加してきた。場所は奈良県野迫川村。かつては紀州藩領だったというところで、今回も高野山側から入った。夏にも調査が行われたのだが、都合が悪く本格的な採訪ははじめての経験であった。
 生業・衣食住から信仰・行事・葬墓制、村の組織まで一通りその集落の民俗を調べるのだが、経験不足もあってなかなか総合的には聞けない。今回は私の関心事である葬墓制や信仰を中心に話を伺った。夏に一度話を伺っていた話者の方は要領が分かっているので私もどうにか聞きたいことを聞くことが出来た。現在見ることのできる墓制が思ったよりも新しいらしい。
 話がいろいろな所へ脱線してしまうのだが、それはそれで面白い。関西というだけで私にとっては違いを感じることがいろいろあった。夜は鴨や猪や鹿の鍋を頂き、その後その日の聞き取り成果を皆で報告し合い課題を確認しあう。教えられることは多く、有意義な3日間であった。

 ところで、私は埋葬墓地を訪れていろいろ考えた。民俗学における墓制研究の多くはソフト面を重視するもので、ハード面の研究は少ないように思う。つまり墓そのものをモノとして研究するのではなく、墓にまつわる習慣を対象としている。しかし、一応考古学を主とする研究を目指す私としては現在の民俗事象に対してもハード面の調査・研究が必要に思える。  私はとりあえず密度を計ってみようと思いついた。切り合いが激しい土坑群があるが、一時期にはどの程度の土饅頭があったのか、民俗資料から推定できないかと考えたのだ。しかし、今回は時間もなく私一人では難しい。一応7m四方に何基あるのか数えてみたが、その距離もいいかげんなものだし、土饅頭のカウントもなかなか難しいものであった。今後似たような研究があるかどうか詳しく調べていきたい。


12月13日(水) 「古代史発掘総まくり 2000」
 昨日の新聞を見ていたら「古代史発掘総まくり」の広告を発見。もうそんな時期かと思いつつも大学の帰りに探すことにした。ところが、週刊誌のコーナーには置いていない。アサヒグラフが休刊していたとは知らなかった。それでも看板特集ということで、別冊という形で発行されていた。小型化してるが、従来のアサヒグラフとは違い、いい紙にしっかり印刷してある。中世以降の資料や各都道府県別のベスト3も掲載されていた。
 特集は植山古墳、出雲大社境内遺跡、宝塚1号墳、安土城跡、そして縄文の漆。囲ノ島B遺跡、夫手遺跡、大武遺跡、青田遺跡、カリンバ3遺跡、是川中居遺跡。何度みても遺構の赤は美しい。
 その他縄文遺跡では下太田貝塚の鋤状木製品、紅葉山49号遺跡のエリ、鉢ヶ谷遺跡のカッパ形土偶とミニチュア土器、三反田蜆塚貝塚の鳥頭土製品、大野遺跡の人面付土器、桂野遺跡のみさカッパとヤッホー、中ッ原遺跡の仮面土偶、滝端遺跡のクマ形石製品が取り上げられている。人面・動物系が多いのは気のせいだろうか。
 土偶や櫛の写真もいいのだが、実は縄文以外の写真のほうが気になる。最近は考古学ニュースがネットを利用して簡単に手に入る。だが、私は縄文以外の遺構・遺物はなかなか記事本文を見たり写真まで見たりはしない。アサヒグラフの美しい写真は主に弥生・古墳・古代の遺跡についての新発見をいくつもさせてくれる。今回最も印象に残ったのは赤坂今井墳丘墓。真っ赤な朱の上に装着時そのままの位置で出土した頭飾りと耳飾りはこれをつけていた人物の姿が思い浮かぶようである。古代の加茂遺跡出土のボウ示札は今回始めてはっきりとした写真を見たがやはり凄い。古代史ではこれだけの文字自体なかなか無いだろうなあと思う。
 さて、森浩一氏の論評のタイトルは「再びいう−考古学は町民の学問だ」。捏造事件やホケノ山を取り上げて報道姿勢の批判、年輪年代測定法についての注意、「考古学は地域に勇気をあたえる」の実践としての関東学などについて述べられている。

 さて、ここで疑問。調査件数は年間1万件。その中でここに取り上げられた遺跡は極僅かである。遺跡に優劣はあるのか? このような特集は何の意味があるのだろうか?
 学史上の意義、地域的財産の再確認などの意味はあるだろう。だが、発見時の状況を思い浮かべて1年を振り返るというのも1つの答えかもしれない。

 朝日新聞社:アサヒグラフ別冊『古代史発掘 総まくり2000』


12月10日(日) シンポジウム「画像資料の考古学」
 12月9日(土)、國學院大學でシンポジウム「画像資料の考古学」が行われた。学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用」の一環として行われたもので、写真を中心とした画像資料の活用と保存について発表・討論があった。

 木下直之氏(東大)は明治初期の大学南校物産会などを写した明治の写真から新情報を得られるおもしろさを紹介した後、記録写真などを写真史にきちんと位置づけていく必要性を述べた。今までの写真史は写真家中心であったが、それだけでは写真史は成り立たないと言う。熊谷常正氏(盛岡大)は小田島禄郎や柴田常恵の写真をもとに、なぜその写真が撮られたのかという視点から、地域考古学史の復元の資料としての写真の意義を報告した。富田紘一氏(熊本市教委)は熊本城・城下町を写した写真を考古学的(型式学的)に細かく読み取ることで、編年を行う試みを報告した。山内利秋氏(國學院大學)は考古学における画像資料の使用のあゆみを概観した上で、現在整理を行っている大場磐雄の写真の学史的位置づけを試みた。これらは被写体を問題とするものと、画像資料(写真のほかに図面・拓本・絵画・映像なども含む)そのもの、つまり技術・構図・撮影理由などから学史的資料を読み取るものとに分けることも可能かもしれないが、ともかく、《なぜ画像資料が大事なのか》という問いに答えるものである。
 一方、青木繁夫氏(東文研)は考古学で作成される報告書以前の画像資料(図面・写真等)の劣化の具体例をあげ、保存上の注意事項を報告した。これは一次資料の《保存法》という問題である。
 さらに、ディスカッションの冒頭で丸山士郎氏(東博)では東博の資料館の概要と問題点を報告された。問題点とは利用者が少ないこと、掲載権、独立行政法人化に伴う縮小である。掲載権(掲載料)の問題は司会をつとめた岡塚章子氏(都写真美術館)も触れた。これは《利用》の問題である。その後のディスカッションではオリジナル資料(土器の拓本や一般家庭から寄贈される写真)をどこまで保存するかという議論や、関連して各機関の条件の差などの問題の指摘などもあった。そして、まずは画像資料のおもしろさを訴えること、そのためには複数の分野の観点で見る必要性が確認された。

 今回のシンポジウムでは、画像資料の有効性、問題点をめぐってさまざまなテーマが議論された。私の感想は次の2点である。
 1つは《オリジナルの保存の必要性》の問題。あまり議論はなかったが、はじめの4氏の報告は、オリジナルでなくたとえばデジタル化した資料であっても分析可能なものであった(※)。しかし、いくら精巧な複製を作ってもオリジナルの持つ情報にはかなわない。現在進められているデジタル化・データベース化・ネット公開と、オリジナルとの関係についての議論は必要であろう。この問題は美術史における作品、考古学における遺構・遺物とそれぞれの報告書との関係とも共通する。
 関連するが、もう1点は《一般の方の利用》である。私は日本国宝展があまりに混んでいた時、東博の資料館を訪れたことがある。しかし、面倒な門での手続き、高い料金、専門家でも来ないのは分かるような気がする(※)。その一方で、インターネットは誰にでも簡単に情報が手に入る。ここでは両極端の例を挙げたが、専門家だけでなく一般の方を視野に入れた公開を考えていくべきであろう。
 なお、当日はスポンサー企業の最新技術を展示したブースが設けられていた。色あせたカラー写真の再生や、赤外線スキャナ、三次元計測システムなど興味深いものであった。

※東博を例に出したが、展示を見る以外のことをしようとすると半分以上の博物館が面倒な手続きを要求する。妥当なもののあるが、そうでないと思われるものも多いのではないか。


 ※追記:「オリジナルでなく…」の部分について、山内利秋氏より誤解であるという指摘を頂いた。オリジナルの付加情報も大いに利用して研究されているとのこと。であれば、なおさらデジタル化に際して、どこまで付加情報をつけるかが問題となってくるだろう。(01/2/21)


12月3日(日) インダス文明展
 広告の問題などもあってサーバー移転を検討してきたが、レンタルサーバーを試用することにした。皆様には不便をおかけして申し訳ない。
 さて、早いものでもう12月。今日は東京での世界四大文明展の最終日である。はじまった頃は余裕だと思っていた私も今日ようやく廻り終えた。最後に訪れたのは東京都美術館で開催されていたインダス文明展。他の3つと比べ展示品が小さいなどのあまり芳しくない感想を聞いていたし、最終日は混んでいるという予想もあって、電車に乗り込んでからも行こうかどうか迷っていたが、「図録買ってきて」という先輩のメールで行く決心を決めた。上野についたのは2時過ぎであったが、意外なことに並ばずに展示会場へ入ることが出来た。やはり人気はいまひとつなのであろうか。
 しかし、このインダス文明展は私にとっては4大文明展の中で最も興味深く見ることができた。
 メソポタミアやエジプト、中国のように展示の目玉となるような大形の王権のシンボルというものがない。ハンムラビ法典をはじめ他の3会場では大形品の露出展示に目がひかれたが、ここにはそのようなものはない。逆に生活品が数多く並べられていた。土器や石器、土偶、装飾品という普段見慣れている種類の遺物が数多く展示されている。磨製石斧は基本的には縄文のものと同じだし、器形や模様のイメージだけなら縄文土器を思わせるような紀元前2〜3千年の土器群、弥生土器を思わせるハラッパーの高坏や壺。またたくさんの小さな「土偶」や「動物形の土偶」かわいらしい。
 大学の「史学入門」の東洋史のはじめにインダス文明が取り上げられ、印章の意義や神官の地位などについて説明を受けていたことも他の展示以上に興味を持った原因かもしれない。しかし、やはり王権の遺物を中心とした他の3会場との違いは大きい。これをどう見るかは人それぞれだが、当時の各地域の王権についての基礎知識を持たない私にとっては異質な大形のシンボル品よりも身近に感じられる生活品を日本のものと比較しながら眺めるほうが楽しい。
 とはいえ、4会場に共通することだが、おそらく展示品はそれぞれの文明の遺産の一部であろう。そのもの自体を鑑賞してあれこれ考えることはできても、各文明の中で展示品がどのような位置を占めるのかというところまでは分からない。やはりこのような大きな展示である以上、それぞれ前もって予習しておいたほうがよかったと思う。もちろんこれはどんな展示をみる時にも必要なのかもしれないが。
 「これを機に、それぞれの文明について詳しく調べてみたい」というほどの興味を持てなかったところが悲しいが、この四大文明展を見たことはきっといつか役に立つだろう。
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