管理人の日記 〜2002年7月〜先月日記トップ翌月
7月12日(金) 〜「韓国の名宝」展〜
 東京国立博物館で開催中の
7月12日(金) 地域展示「月見野遺跡群」と「発掘された日本列島」展 〜発掘された日本列島2002〜
 考古学各論の授業の一環として、江戸東京博物館で開催中の「発掘された日本列島2002 −新発見考古速報−」展を見学してきた。以下は、その感想レポートの一部である。

 冒頭のキトラ古墳の壁画はその構成、色鮮やかさなどの点で非常に面白いものであった。横尾遺跡のカゴに入った黒曜石や渡来川北遺跡の水場遺構は縄文時代の生活を考える上で興味深い。北九州・丹後・関東の弥生墓の比較も墓制に関心のある者としては嬉しい展示であった。このように、今年の「発掘された日本列島2002 新発見考古速報」展も興味深い資料が多数展示されていた。本稿ではそれらの各展示資料の中から月見野の展示をとりあげ、後半で発掘された日本列島展全体の問題について考えてみたいと思う。

地域展示「月見野遺跡群」
 全体を考える上で最も示唆的なものが地域展示として行われた月見野遺跡群の展示だったと思われる。そもそも、「2002」「新発見」と銘打った企画展で何十年も前に調査された遺跡を紹介するのはなぜだろうか。それは「発掘された日本列島展」全体の中で位置付ける必要があろう。
 月見野遺跡群は神奈川県大和市つきみ野(旧下鶴間地区、大和市北部第一土地区画整理事業地内)に所在する旧石器時代を中心とした遺跡群である。1968年の相模考古学研究会による分布調査で18地点で遺跡の所在が確認されている。そして、東急と土地区画整理組合による大規模な宅地開発の事前調査として、1968年・69年に戸沢充則・安蒜政雄両氏を中心とした明治大学のチームによって発掘調査された。  この遺跡の学史的意義については、4点ほどあげることができよう。
 まず、つい先年までの開発に伴う大規模な発掘調査の先駆けであったということである。学生が自主的にだが分布調査が行なわれ、調査費用は全額開発者が負担した調査であった。
 次に、編年研究の促進がある。先に述べたように、17の石器群の編年が組まれた。これは現在最も精緻な編年といわれる12段階にわたる相模野旧石器編年(諏訪間2001)の基礎となるものであった。
 第3に、石器のまとまりを理解する方法について試行錯誤が繰り返されたことが挙げられる。石器集中という事実とその解釈としての「ブロック」とブロック群という抽象的概念の思考。月見野で仮説として掲げられたこの視点はその後、個体資料(スポット)−ブロック−ブロック群(ユニット)−遺跡群を旧石器時代のヒト−イエ−ムラ−集団の反映と考え、その構造を理解する「遺跡構造論」研究へと発展して行くことになる。
 第4に、遺跡群研究の視点が挙げられよう。月見野を含む相模野台地では多数の旧石器時代遺跡が発見されている。既に述べたように、人間の行動が1つの遺跡で完結しないことが明らかになっている以上、近隣の遺跡群の関係について考えて行く必要がある。
 以上の成果により、武蔵野台地上の野川遺跡の調査と共に、それ以前と以後の旧石器研究の方法と視点を大きく変え、現在にいたる諸視点・諸問題が提起することになった。このため、研究史上「月見野・野川」という一大画期として認識されている。

 さて、本展で展示されていたのは、大きく2種類の資料である。1つは68・69年の調査に関わる行政書類、日誌、費用リストなどであり、学史を語る資料とも言える。もう1つは、月見野遺跡群の石器変遷。相模野No.149遺跡の石器群を加えた8つの石器群が年代順に展示されていた。
 今回、旧石器捏造事件に関するお断りが掲げられていた。昨年は会場の最後に小さく張り出されていたため批判を受けてたものだが、今回は展示のはじめの部分に大きく張り出されている。これに対し、地域展示という性格も考慮しても月見野の展示位置は象徴的である。 前期・中期旧石器研究が崩壊した今、現在の後期旧石器研究の出発点としての「月見野」を最後に配置することで、旧石器研究の再出発を宣言したものと受け止めたい。そういえば、今回の展示は岩宿II遺跡、荒屋遺跡、登呂遺跡など学史的な遺跡の再発掘の紹介が目立った。これも考古学の「原点」に立ち返ることを示しているのだろうか。
 だが、一般の観覧者で、こうした学史的な位置付けを含めた事情を理解している人はどの程度いるのだろうか。さらに言えば、「月見野」に直接関わらない研究者にとって、この展示構成上の位置付けは上述のようにすっきり納得できるだろうか。もう1つ気になるのは、正式報告書が未刊行であるという点である。『概報』は68年分しか載っておらず、69年分については個人的な論考の中でしか示されていない。もっとも、その意味では他の「新発見」遺跡と同列とも言えようが。

「発掘された日本列島」展
 95年にはじまった「発掘された日本列島」展は、上高森をはじめとする「前期旧石器」資料を展示することで、その位置付けに国の御墨付きを与えてしまった、と批判されてきた。今回の竹佐中原遺跡の位置付けについても慎重論があるという。
 ここで展示される資料は、「新発見」ということで、きちんと考古学的に位置付けられていないものである。考古学的にいえばこのような展示自体問題が大きいと思われる。これは出土品の展示であって、考古学の成果を示したものではないからである。
 しかし、この展示は考古学の展示ではなく「埋蔵文化財公開普及事業」である。年間1万件近い発掘調査は国民が間接的に費用を払っており、それらの成果は広く一般に還元していかなければならない。しかし、報告書や論文を以ってその資料の位置付けを行う従来の方法では、一般に公開されるのは十数年の年月が必要であることから、より早くそれらの成果を紹介することを目的に開催されることになったものである。見学者数は伸びているということであり、少なくとも多数の方に出土した埋蔵文化財を見てもらうという点では成功しているといえよう。
 確かに位置付けが不明確な資料、珍しいさだけの資料などの展示は考古学的には問題である。例えば、「寅さん」埴輪は、考古学的には必ずしも注目すべき発見ではなかったと思われる。だが、その出土地と形態によって話題を提供したのである。「弥生人の脳」も同様である。自然科学的な分析の資料にはなっても考古学的な考察の対象にはなり得ない。しかし、こうした資料こそは一般の方の関心を集めるものであり、「見てみたい」と感じる話題性を持つ立派な文化遺産である。
 本来、埋蔵文化財は考古学だけの占有物ではない。考古学展示と文化財普及展示の混合が決して悪いわけではないが、両者が共存しているところに問題の原因があるように思われる。

 一方、考古学的な観点からの資料の提示という側面で見ると、今回は新たな試みがなされている。「発掘された食べ物」という特集展示である。昨年までの展示は並んでいる資料相互の関係はほとんどなかったが、展示の後半で食に関する資料が通時的に展示されていた。初めての試みということもあって最も身近なテーマが選ばれたのであろうが、珪藻土や石膏のイモなどは興味深いものであった。このような新たな試みは、「発掘された日本列島展」が今後も進化しつづけることを示したものと受け止めたい。
 「発掘された日本列島」展も既に8回目を迎えたが、個人的には各回の注目度は毎回同じではない。初年の95年をみると、上高森、上野原、三内丸山、原の辻、上淀廃寺、柳之御所、今小路西、新橋停車場など通った遺跡ばかりであるが、その後はそれほどの注目度の高い資料ばかり集められるものではない。無論、全国で行われている多数の調査から選び抜かれてきたものであり、それなりの意義はあるはずのものである。しかし、なかなかリアルタイムの報道に接するのは難しい。専門としない時代の資料などその重要性はなかなかわかるものではない。恐らく私以外の人にとっても同様なところはあるだろう。年末の『アサヒグラフ』の特集がなくなった今、それぞれの資料について、例えば新聞記事を横に掲げたりするなどして、なぜこの資料が選ばれたのか、何が重要なのかを、より分かりやすく説明してほしいと思う。新資料を全国で見てもらうというこの企画展も既に年中行事化してきたところである。通常ならマンネリ化も避けられないところであるが、偶然にも前期旧石器問題によってそのあり方が大きく問われることになった。
 そうした中で、今回は月見野を含めいくつかの学史的な遺跡が取り上げられ、研究の再出発を宣言した。また、初めて特集展示も行われた。このように今後もさまざまな取組みが行われ、より意義のある展示会となっていくことを期待したい。(02.7.28)

 発掘された日本列島2002
 東京都江戸東京博物館「発掘された日本列島2002 −新発見考古速報−」展


7月11日(木) 東京大学総合研究博物館「北の異界−オホーツクと氷民文化−」

7月5日(金) 印刷博物館「ヴァチカン教皇庁図書館展」

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