管理人の日記 〜2002年12月〜先月日記トップ翌月
12月30・31日(月・火) 年末の古都 〜京都・奈良〜
京都国立博物館
 伏見稲荷での助勤のため一足早く京都へ向かった。まず足を運んだのは年末年始開館を実施している京都国立博物館。レンブラント展という大型企画中ということもあろうが、この時期に開館しているとは素晴らしい。訪れるのは初めてである。  京博は明治30年に開館。東博表敬館、奈博本館と同じく片山東熊によって設計された本館(「旧帝室京都博物館」明治28年竣工、1969年重文指定)が現在も現在特別展会場として利用されている。また、常設陳列会場としている新館は1965年に森田慶一によって設計されたものである。常設陳列は17室に分かれており、考古・陶器・彫刻・絵画・書跡・染織・漆工・金工の各分野の作品が陳列されている。暗い照明、北側の陽光採光、手書きの題箋、解説は殆ど無い。こうした旧来の展示手法はそれはそれで興味深い。かつての「博物館」のイメージを作り出してきた典型例であろう。ただ、そうした状況を写真におさめておこうにも写真撮影は禁止であった。寄託資料が多いためであろうが残念である。Webサイトの内容や事業、特別展図録などは決して古臭いものではないだけにそのギャップに戸惑いすら覚えた。なお、現在百年記念館の建設が進められているという。
 年末年始は平城陳列のみの観覧は無料となっており、中庭では多くの方がくつろいでいた。気温もそれほど低くなく、心地よい時間が流れていた。

大レンブラント展
 さて、本館では大レンブラント展が開催中であった。オランダ**美術館と共催の、レンブラントの全貌を見わたそうという展覧会である。出品作品についてコメントする余裕は無いのだが、いくつか感じたことを書いておこう。1つは、当時の絵画の受入れられ方。大きな絵画から小さな絵画までその大きさは飾られる場所と注文主の懐具合によって決まる。また、この有名画家の絵もしばしば切断されているということを知ったのも印象的であった。私は絵画といえば美術館で他の絵と並んで鑑賞するくらいである。実際にヨーロッパを訪れてそれが飾られる場はどういったものなのか見てみたいと感じた。
 図録は、  Webサイトも充実している。

東福寺と佐保路

 京都国立博物館 大レンブラント展 
12月29日(日) 今年の反省にかえて
 2002年も残り僅かになりました。今年も博物館、シンポジウム、研究会、遺跡調査見学、神社見学など各地で多くの方々にお世話になりました。都道府県名であげれば北海道、新潟、群馬、埼玉、東京、千葉、神奈川、山梨、長野、静岡、愛知、石川、大阪、奈良、和歌山、愛媛、香川、徳島、高知の19都道府県になります。
 後半は毎週のように出かけて中々その成果を咀嚼しこの日記に書くことも出来ませんでしたし、個人的に何かをまとめるという作業もできませんでした。冬休み中に入り少しでも更新作業を進めたのですが、どうやら時間が足りなかったようです。わざわざアクセスしていただいた皆様には申し訳なく思います。
 12月30日より1月3日まで伏見稲荷大社の助勤として奉仕するため京都へ参りますので、2002年を振り返る作業は年が明けてから掲載する予定です。
 皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。


12月25日(水) 行田大道北遺跡の「クッキー状炭化物」
 Eternal Orbiters+αの洞口さん、Arch.Laboの横山さんのお誘いを頂き、群馬県松井田町の行田大道北遺跡の「クッキー状炭化物」の観察に行ってきた。お二人とも学校に考古学を取り入れる活動をされている方であるが、その人気メニューであった「縄文クッキー」の成分として使われてきた脂肪酸分析の結果が直接信用できない状況になったため、もう一度実物を観察して材料・作り方の手がかりを探ろうという趣旨であった。
 松井田町には石棒製作地である西野牧小山平遺跡、後期の集落・墓域である行田梅木平遺跡、五料野ヶ久保遺跡、中期の集落・垂飾製作地である新堀東堀ヶ原遺跡など興味深い縄文遺跡が多数調査されている。これらの成果は松井田町文化財資料室に展示されており、今回はそこで観察させていただいた。
 行田大道北遺跡は上信越自動車道建設に先立って調査された遺跡で、諸磯c期の住居・土坑から「クッキー状炭化物」としては国内最多の約70点が出土している。まず、双眼実体顕微鏡で表面や断面を観察したが、これまでそうした観察をしたことが無い私の眼にはこれといって特徴的なものは目に入らなかった。そこで、私は裏面の観察に移った。報告書に掲載されている実測図は表面(?)図と断面図のみで裏面についての記述はない。しかし、総べて見たわけではないが、特徴的な圧痕が認められるものと認められないものとがあることが確認できた。さらに詳しく観察することで調理単位を考える手がかりになるだろう。他の方もそれぞれ成果があったということである。いずれにしろ半日では時間が足りないこと、再実測・写真撮影等の作業も必要だろうということがわかり、今後の課題となった。
 当サイトに「縄文時代の加工食品炭化物」と題した小文を掲載しているものの直接観察することはなかった私だが、この種の遺物の研究が未開拓であり、改めて細かく観察することでかなり成果があがるのではないかと感じた。


12月17日(火) 20世紀の石器と広告 〜東大総合研究博物館、アド・ミュージアム東京〜
新規収蔵展示「モノは私のフィールド・ノート−小田静夫氏旧蔵南太平洋コレクション」
 東京大学総合研究博物館で小田静夫氏旧蔵の南太平洋の民族資料のミニ展示が開催されている。当初「20世紀の石器時代」と題されていたため石器中心の展示かと思って行ったのだが、仮面や神像、釣針、貝斧なども展示されていた。私は特に綺麗に磨かれた木の葉形の石槍に心惹かれるものがあった。儀礼用であり美しい品であった。ただ、それ以上の説明はなく詳細はわからない。なお、現在のオセアニアと題してガイドブックや土産物類の展示コーナーもあったが、民族誌展示を行うことによる現状の誤解を避けるよう配慮したものであろう。(02.12.17)
 
小田静夫「「モノ」は私のフィールド・ノート」Ouroboros 19

アド・ミュージアム東京
 アド・ミュージアム東京は、汐留に移転した電通新社屋の一角に12月1日にオープンした広告に関する企業博物館である。江戸時代の引き札や看板が描きこまれた浮世絵にはじまり、ポスター、ラジオ・テレビコマーシャル、商品関連グッズなどが並ぶ。展示品は、日頃見慣れたブランドのイメージを形成してきたものであり、親近感も強い。実生活で目にする広告にミュージアムという場で出会う新鮮さ、長寿商品の初期の広告と現在の広告との比較など、対象を知っているからこそ面白く感じられる部分があるのだろう。展示品の親しみやすさは、ここに限らず企業博物館の特徴と言えよう。
 また、ここを訪れたのは映像展示のレポートという社会視聴覚教育(学芸員・司書・社教主事課程の授業)の課題に使わせてもらおうという目的があったのだが、各所に映し出される映像は江戸期の広告の解説を除けば、屋外広告やテレビコマーシャルなどそれ自体が展示品であり、しかも動感のあって活き活きとしている。著作権の関係で写真撮影が出来ないということなのでレポート化は諦めたが、興味深く拝見した。(02.12.24)
 アド・ミュージアム東京


12月15日(日) 下宅部遺跡周辺の自然と史跡
 縄文後・晩期の水場遺構で知られる東京都東村山市の下宅部遺跡は都営住宅建設に先立って調査された結果、その重要性から3000平方メートルが現状保存されることになった。そして、その活用法については東村山市ふるさと歴史館において昨年度から市民参加のワークショップが開かれ、具体的な計画を練ってきたところである。私は、今年度からその「しもやけべ遺跡公園を育てる会」に参加させて頂いている。大枠は既に昨年度に決められていたため発言することはほとんど無いのだが、私が注目しているのは市民参加によるイベント広場としての利用である。ハードの部分よりもソフトの部分であり、それも遺跡公園だけでなく、周辺の史跡・自然といった遺産と一体化したものを期待している。
 だが、私はそもそもよそ者であり実際に訪れたことは無かった。そこで今回ワークショップとは別に別に東村山市西北部地区「歴史とロマン」わくわくするまちづくり市民の会主催の歴史散歩は丁度よい機会であった。新田義貞の鎌倉攻めに関連する元弘の板碑、久米川古戦場、将軍塚、となりのトトロの舞台となった八国山緑地、先年消失してしまった古民家跡、下宅部遺跡、都内唯一の国宝建造物である正福寺地蔵堂など、午前中に周ると言う時間の関係もあって板碑は実際に見られなかったのが残念だが、思ったより近距離にこうした史跡、旧跡、自然が残っていることを実感できたことは良かった。八国山緑地の自然は下宅部遺跡出土の動植物との比較対象としてワークショップでも取り上げられているものだし、それを抜きにしても緩やかな緑地は歩いていて気持ちがよい。
 下宅部遺跡も久しぶりに現場を見学し、西側で調査中の水場遺構を見ることができた。既に東側は住宅の建設がはじまっている。
 また、このコースの最後は手打ちうどんを頂くというものであった。稲作が充分出来なかったこの地域ではうどんが儀礼食として欠かせないものであった、という民俗学的な背景もあってこのうどん屋は多い。そのうどん作りも歴史館で習うことが出来るという。今回はそうした東村山の文化遺産である美味しいうどんをたっぷり味わうことが出来た。
 私にとっては各ポイントを実際に見て、歩いて、味わって、感じるができたという点で非常に有意義なイベントだった。今後もいろいろ地域の遺産を生かしたイベントが行われることを期待したい。

 午後は、ワークショップであった。基本設計を担当している業者の方をお招きしたが、だいたいプランどおり行けるだろうということである。いよいよ来年には公園はオープンである。(02.12.24)


12月14日(土) 弥生と古墳の間  〜シンポジウム「墳丘墓から古墳へ−秋葉山古墳群の築造−」〜
 海老名市の秋葉山古墳群をめぐるシンポジウムが同市文化会館で開催された。秋葉山古墳群は神奈川県の中央部、相模川左岸の丘陵部に位置するもので、5基の前期古墳が並ぶ。最近の調査で3号墳が、定型化された前方後円墳の出現以前の段階の前方後円形の墳丘墓であることが明らかになってきており、押方みはる氏(海老名市教育委員会)より、秋葉山古墳群の研究史と最新の調査成果が発表された後、その位置付けと今後の課題をめぐって7人のお話があった。
 まず、西川修一氏(神奈川県立県立中沢高等学校)が「関東地方の古墳出現期の様相」と題して、千葉県の神門古墳群や高部古墳群、松本市の弘法山古墳などを紹介され、秋葉山3号墳もこうした「突出部を持つ首長墓」の展開の一環として捉えることができること、その動きは基本的には在地の内的発展に基づくものと理解できることを述べられた。一方で、全国的には地域型高塚・鉄剣副葬・鏡の広域分布から「緩やかな規範」が存在したことも指摘された。
 次いで、赤塚次郎氏(愛知県埋蔵文化財センター)は、「東海地域を中心とした古墳出現期の様相」と題し、
 午後は甘粕健氏の特別講演「秋葉山古墳群とヤマト王権」から始まった。秋葉山3号墳が大和の纒向型を、つづく2号墳・1号墳や県内のいくつかの前方後円墳も大和の王陵をモデルにした可能性が高いことを指摘されたほか、県内の稲荷山古墳群や日吉加瀬古墳群が既に開発で失われている中で、秋葉山古墳群が丘陵ごとほぼ完全に保存されていることを高く評価された。
 休憩をはさみ、立花実氏(伊勢原市教育委員会)が「土器から見る古墳時代のはじまり−秋葉山古墳群をめぐる土器と墓−」と題して発表された。(1)相模川・金目川流域での弥生中期と後期の土器が断絶し、(2)後期前半で相模川流域は東三河・西遠江、金目川流域では東遠江・東駿河の土器の影響を強く受け、(3)後半で前者を後者が飲み込んでいく形で融合、さらに(4)古墳前期前半で伊勢湾系土器、(5)後半で畿内系土器が東日本一帯に広く分布するようになる、という土器の流れを紹介された後、それを用いて作成した相模川・金目川流域の集落と方形周溝墓の消長表を示され、弥生後期から古墳時代にかけて集落が継続する例は多いのに対し、方形周溝墓は断絶があることを指摘された。つまり、古墳前期に入り方形周溝墓の持つ意味も変化したということである。また、同じ古墳前期でも秋葉山とのサイズの差は歴然としているものの、出土土器からみると在来的色彩が濃いことも指摘された。
 稲村繁氏(横浜市自然・人文博物館)は「地方に見る初期の埴輪−特殊器台から埴輪へ−」と題し、秋葉山2号墳出土の「円筒形土製品」の位置付けについて考察された。畿内での特殊器台→特殊円筒埴輪→普通円筒埴輪の流れを器形と配置で紹介された後、壺との共伴や配置場所などから秋葉山例を大和型特殊器台・特殊壺の「壺を載せる円筒形の土製品」という意識だけが伝わったものとされた。
 北條芳隆氏(東海大学)は秋葉山の土器にみられた水銀朱に関連して「水銀朱の使用と祭祀」と題して発表された。まずスライドを使いながら瀬戸内周辺で銅鐸への朱の塗布が墳墓への塗布へと変化するという指摘や、前方後円墳への塗布の実例の紹介をされた後、相模地域では既に弥生の方形周溝墓にベンガラが使用されているのに対し、秋葉山の段階になって遠隔地から伝わった水銀朱の使用が開始されたことの画期性を指摘された。
 質問・会場のコメントの後、最後に司会を務められた望月幹夫氏(東京国立博物館)が全体の総括をされ閉会した。

 実は、私はその前日(13日)に、授業で弥生時代の副葬品の概要についての発表をしたのだが、弥生時代終末期の墳丘墓から古墳出現への見通しが付けられなかったため後期後半までで止めておいた。今回のシンポはまさにその時期をテーマとしたものであり、強い関心を持って聞かせていただいた。弥生時代・古墳時代は勉強不足でありすべて理解できた訳ではないが、このシンポでかなりのイメージを得ることができた。
 なお、翌日に葉山町で開催される長柄桜山をテーマとしたシンポジウム「前期古墳を考える〜長柄・桜山の地から〜」も引き続いて聴きたいところなのだが別件が入っており残念ながら聴くことはできない。(02.12.15)


12月8日(日) 自己認識と他者理解 〜JMMA特別事業 FORUM「ミュージアム・コミュニケーション」〜
 学術総合センターで開催された日本ミュージアムマネージメント学会主催のフォーラム「ミュージアム・コミュニケーション −21世紀の博物館を創造する原理を探求する−」を聴きに行った。
 まず、英国レスター大学のEilean Hooper-Greenhill教授による"MUSEUMS, COMMUNICARION AND LERNING: NEW SOCIAL ROLES FOR MUSEUMS"と題する基調講演。博物館に高い敷居を感じている人びとがいる原因を、博物館側から観客への一方通行の情報提供の姿勢にあると指摘(その情報も専門性が高く多くの観客には暗号に近い)。観客と一括するのではなく、家族・学校の生徒・障害者などの様々な対象、あるいは想像力を発揮する人・情報を元に分析する人・自らやってみたい人などと様々な学習スタイル、言語的・数学的・音楽的・運動的など得られる能力などを認識に、それぞれに会った活動を行うべきであるとし実践例を紹介された。このような活動は情報が一方通行では到底なしえない。双方向性が必要になってくる。
 次いで、フォーラム1として、3人の模擬討論が演じられた。発表の合間に緊張感がほぐれる楽しい企画である。内容は研究重視か教育普及重視か、という耳タコの話題であったが、博物館の使命を明確にすべきであるという点はある程度両者の理解を得たようである。
 午後からは3会場に分かれて発表が行われた。私たちは「21世紀の博物館をどう創り・運営するか」と題したフォーラム2を聴いた。まず山田英徳氏による、外部人材との共同事業である科学技術館の科学ライブショー「ユニバース」の実践紹介とホスピタリティ精神の必要性。次いで菊地慎太郎氏による、一度は中止されかけたものの市民の動きで開館にこぎつけたという浦安市郷土博物館の経過報告。ここではボランティアスタッフが自ら動く展示物と称するまで同館の活動を支えていることが紹介された。最後に大月ヒロ子氏(イデア)による大阪府立大型児童館ビッグバンでの移動ミュージアムの経験や地元民主導の分散型ミュージアムの提案などがなされた。
 その後、コーヒーブレイクをはさんで、水戸芸術館の逢坂恵理子氏による提言「美術館における新たなコミュニケーションについて」として、同館の参加型事業、館外での事業などを紹介された。ビルの壁面やショッピングバッグなど街中にアートを出現させるというのは非常に面白い。最後に午後の各フォーラムの報告と全体のまとめで閉会した。

 今回のフォーラム全体として、博物館の意義として、自文化理解・他文化理解が挙げられていた。そのためには博物館が、自らの館の使命・役割を認識すること、観客の多様性を認識することがまず必要になるだろう。この方面の私の興味の出発点は埋蔵文化財・民俗資料・地域の文化財の活用法にあり、必ずしもミュージアムという場を必要とするものではないが、本日の議論で自己認識・他者理解の重要性が具体的に指摘されたことは私にとっても非常に意義深いものであった。(02.12.08)

 
日本ミュージアムマネージメント学会 Department of Museum Studies,University of Leicester 科学技術館 浦安市郷土博物館 ユニバース (有)イデア 大阪府立大型児童館ビッグバン 水戸芸術館


12月1日(日) 縄文土器の製作と移動 〜山梨県考古学協会2002年度研究集会「土器から見た縄文社会」〜
 帝京大学山梨文化財研究所を会場として行われた山梨県考古学協会の2002年度研究集会「土器から見た縄文社会」を聴きに行った。
 まず、山本孝司氏(東京都埋蔵文化財センター)は「粘土採掘と土器製作−多摩ニュータウン遺跡の事例より−」と題し、多摩ニュータウンNo.248遺跡、No.245遺跡の事例を中心に土器製作に関して発表された。No.248遺跡では粘土採掘坑が、隣接するNo.245遺跡では粘土ブロックや焼成粘土塊、未焼成土器が見つかっている。これらの紹介の後、粘土採掘量と土器生産量の概算、さらに周辺集落との関係についても考察された。土器製作・供給の姿を実際の遺跡・遺構・遺物から具体的に明らかにしようとする点で興味深いものであった。
 次いで、阿部芳郎氏(明治大学)の「縄文時代後期における遺跡群の形成と土器のライフサイクル−下総台地中央部印旛沼南岸地域における遺跡群の分析事例から−」と題する発表。遺構・遺物から遺跡を4つに類型化し、土器製作の拠点となる遺跡と使用・廃棄だけの遺跡とがあることを推察、土器のライフサイクルも前者の遺跡だけで完結する場合(遺跡内完結型)と、前者から後者へと移動する場合(遺跡連鎖型)とに分けることができるとした。また、類型間で土器量や土器組成、補修の有無などが異なることからその性格に差があったことも指摘している。阿部氏の発表は遺跡の類型化という従来からの研究法に土器のライフサイクルという視点を持ち込んだ点に新鮮味があったと思う。
 昼食後、河西学氏(帝京大学山梨文化財研究所)が「胎土分析から見た土器の生産と移動」と題してこれまでの分析結果と考察を述べられた。ただ私は胎土分析については勉強していないので、ここでは詳しくは紹介できない。
 谷口康浩氏(國學院大學)の「縄文土器型式情報の伝達と変形−関東地方に分布する曽利式土器を例に−」は、土器情報の移動という問題を数値を用いて分析したものであった。関東地方の各遺跡における曽利式(曽利系)土器の比率と、3分類した山梨の土器との類似度のうち最も類似度が高い一群の比率をもとに、曽利式情報量を算出、その等値線図を示された。その結果については従来漠然と考えられてきたものと大差はないものと考えるが、それを数値を用いて示された点に意義があろう。今後、数学的分析手法に慣れていくことも必要だと実感した。
 小野正文氏(山梨県埋蔵文化財センター)の「物語性文様について」はモチーフを具体的な段階、変遷過程を証明できる段階、文様構造から何を表現しているか理解できる段階に分けて人面・蛇などについて具体的に紹介された。ただ、その解釈に神話が登場せざるを得ないのはこうした研究の難しさを示しているのだろう。
 最後に建石徹氏(東京芸術大学)が「縄文土器のライフサイクル−自然科学的手法による接近を中心に−」と題して発表された。はじめにこの種の研究の先駆者として直良信夫氏の業績を紹介された。直良氏が1920年代に胎土や用途、ライフサイクルに関する視点をもって研究されていたとは知らなかった。後半は、同一遺跡群内で胎土が異なっている例など建石氏の最近の分析例を紹介されたが、こちらも詳しくは紹介できない。また、討論の内容についても省略させていただく。

 このように各発表は様々な切り口からではあったが、全般として土器の製作と移動(流通)をテーマとしたものであった。その背後にある社会についての具体的言及はなかったものの、そこに迫る視点を提示されたことは私にとって大いに刺激的であった。正直なところ土器研究にはそれほど興味がなかった私であるが、今回の各発表でその認識を改めさせられた。資料集には以上の発表の要旨のほか、10本の紙上発表と縄文土器製作関連遺構・遺物集成が掲載されており、同じく当日発行の帝京大学山梨文化財研究所報(特集土器から探る縄文社会)の4本の論考と共に興味深く読ませていただいた。(02/12/17)


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