管理人の日記 〜2003年1月〜先月日記トップ翌月
1月29日(水) 加工食品炭化物の事例追加
 この度、研究メモ「縄文時代の加工食品炭化物」に事例を3例追加した。2例は尖石縄文考古館所蔵の茅野市出土の中期の例で、昨年同館を見学した際に展示されていたのを発見した。気にはなっていたがそのままにしており、ようやく先週メールで問い合わせた結果、文献や現状をご教示頂いた。わざわざ計測まで行って頂いたようだ。
 もう1例は山梨県白州町の鳥原平遺跡群上小用遺跡TH84区からの出土。こちらの遺跡の調査成果はweb上で紹介されているが、今回同遺跡出土の「パン状炭化物」のページがアップされた。私の「縄文時代の加工食品炭化物」にもリンクを張って頂いている。
 3例とも、中部高地・中期・住居跡出土、というこれまでの大勢の中に収まるものであるが、この種の遺物はまだまだたくさん出土しそうである。これをどう研究していくかは難しいところがあるが、詳細な観察は1つのきっかけを得ることが出来よう。ちょうど、昨年末に群馬県松井田町の行田大道北遺跡で70点におよぶ「クッキー状炭化物」を見せていただいたが、上小用遺跡のページでは、表面の拡大写真も掲載されており、興味深い。(03.01.29)
 縄文時代の加工食品炭化物
 鳥原平遺跡群TH84区1号住居址出土「パン状」炭化物


1月26日(日) 考古学研究会第2回東京例会「東・北日本の弥生文化」
 昨年の國學院大學で開催された考古学研究会の東京集会に引き続き、今回は「例会」と銘打って東京都立大学で表記の研究会が開催された。従来近畿や東海からの文化伝播という視点ばかりでみられがちだった東日本の弥生文化について、弥生中期並行期の北海道・東北・関東の交流という視点で見直してみようというのが趣旨であった。
 
1月26日(日) 駅から5分の縄文祭祀遺跡 〜町田市田端遺跡〜
 19日の貴志さんの発表に促されて、都立大に行く前に田端遺跡を訪れた。思えば縄文時代に興味を持ち始めた頃、中学3年の時に初めて訪れた市外の縄文遺跡である。おそらく多摩境駅ができてすぐのことだったのだろう。八王子へ抜ける都道はまだ開通していなかった。調査当時のまま残された環状積石遺構に感動し、付近の畑で表採できたのに感動した覚えがある。
 都心に近い遺跡公園としては多摩ニュータウンの「縄文の森」や港北ニュータウンの「大塚・歳勝土遺跡公園」、あるいは貝塚や古墳などがあるが、私としては石を使った遺構が実際に見られる(ただし来年度まで)この遺跡は非常に魅力的な遺跡である。
 現在は2方向に民家が立ち、遺跡までのエリアは大小のマンションが立ち並んでいる。駅近くの神社の景観も大きく変わった。だが、幸いなことに南側は大きな開発はなく、南に傾斜している地形も幸いして丹沢を望む眺望は健在であった。(02.02.18)


1月19日(日) 東京都における縄文後期墓制資料の新資料3例 〜第28回東京都遺跡調査・研究発表会〜
 三鷹市芸術文化センターで開催された第28回東京都遺跡調査・研究発表会へ行ってきた。旧石器時代〜近世にいたる11の遺跡の発表が行われようだが、時間の都合で私は4本の縄文遺跡の発表のみ聞いてきた。

北区西ケ原貝塚 坂上直嗣氏(北区教委)
 第11次調査として120平方メートルが調査され、住居跡7軒(加曽利E3式期3軒・称名寺1式期1軒・堀之内1式期3軒)土坑・貝層9地点とともに墓坑3基、屋外埋設土器2基が発掘された。
 墓坑は後期前葉〜中葉に属し、いずれも保存状態のよい人骨が検出されている。また、屋外埋設土器は加曽利E3式期と称名寺式期とがあるが、後者からは新生児骨が見つかっているという。昨年の調査中に見学させていただいたのだが、埋葬状態の判明する遺構として注目される。

東村山市下宅部遺跡 藤沼昌泰氏(下宅部遺跡調査団)
 下宅部遺跡からは縄文時代と古墳時代の3つの水場遺構が紹介された。縄文時代の第10号水場遺構は水流内の掘り込みを囲んで多数の杭が長方形に打ち込まれた遺構である。また、第11号水場遺構は半截材を並行に設置した遺構で、その間からクルミの殻が密集して見つかっている。このクルミは人為的に割られた形跡があるという。縄文人がどこで割ったのか、どこで食べた(あるいは加工した?)のか気になる遺構である。
 古墳時代の第12号水場遺構は、流れをせき止めるように竹のような植物を何本も差し込み、さらにワラビの茎を敷き詰め柵状にした遺構である。

町田市田端遺跡 貴志高陽氏(町田市教委)
 1968年に環状積石遺構が調査され、都史跡としてそのまま露出展示されてきた遺跡である。私にとっては、縄文時代に興味を持った中学3年生の最初の頃に見学に出かけた思い出の場所である。
 当時は遺跡までの道程ものどかな風景が展開し、遺構周辺は畑が広がっていたのだが、一昨年くらいに行った時には遺跡に至るまでに住宅が立ち並び驚いた。しかも、積石遺構周辺が発掘されており、積石遺構を残して周りは全て住宅と化してしまうのかと寂しく思っていた。
 今回の発表を聞くと、どうやら史跡整備のための確認調査だったらしく、ほっとした。調査の結果、住居跡9軒など中期の遺構・遺物が南側に広がり、北側には墓坑6基など、後期の遺構・遺物が多く検出された。この墓坑は積石遺構下部墓坑と同時期で、一連のものと推定されている。確認調査なので、墓坑の掘り下げは行われていない。
 史跡整備計画についてもお話された。それによると、現在露出展示している本物の遺構が劣化してきているため、2004年度には埋め戻して現在地表レベルにレプリカを設置するらしい。積石遺構の周囲も含め、1800平方メートルの公園が整備される予定だという。
 「日本で最も駅前にあるストーンサークル」と貴志氏が表現されていたが、その点には大きな価値がある。眺望も非常に良い場所である。当日もその写真が映されたが、冬至の日の入りに蛭が岳(丹沢最高峰)に日が沈むことも指摘されている。この眺望と、立地を活かした公園作りを期待したい。

三鷹市丸山A遺跡 下原裕司氏(三鷹市遺跡調査会)
 地元三鷹市からは丸山A遺跡の発表があった。大正3年に学界に紹介された遺跡であるが、本格的な調査は1987年以来である。断片的な調査が続いてきたが、今回はそのうち縄文後期の調査成果について丸山B遺跡の成果とともに紹介された。

 以上のように、3遺跡が、卒論で取り上げようとしている後期の土坑墓についての発表であり、私としては非常に有意義なものであった。いずれも墓域全体が調査されたものではないが、堀之内式期〜加曽利B式期の定型化した墓坑とその周囲の状況の一端を垣間見ることが出来た。これらの資料をどう料理するか、現在いろいろ試行錯誤している
 また、下宅部遺跡と田端遺跡で、公園整備の話が出たことも重要である。挨拶に立たれた三鷹市教育委員会生涯学習課長の岡崎氏が、述べられたように「財産をもっと知ってもらうこと」が大事である。公園化はその有効な手法であるが、完成前からそのサポーターを生み出していくことによってより活発に利用されると考えられる。(03.01.20)


1月11日(土) ダムに沈む式内社の遺構調査 〜祭祀考古学会研究会〜

1月1日(水) 謹賀新年
 昨年は博物館、シンポジウム、遺跡見学、遺跡調査・整理など各地で多くの皆さまにお世話になりました。どうもありがとうございます。また、その一方で、このサイトの更新が滞ってしまい、わざわざアクセスしていただいた皆さまにはお詫び申し上げます。

 本年もいろいろ計画を立てていますが、まずは、これまでの成果を卒論としてまとめる作業に取り掛からねばなりません。  今後もより一層のご支援をよろしくお願いいたします。

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