管理人の日記 〜2003年12月〜先月日記トップ翌月
12月31日(水) 本年もおしまい
 2003年の終わりに当たってまず感じることは、今年の「秋」の記憶が無いことである。6月の教育実習以降、男体山踏査、利島調査、九州調査、大学院試験、卒業論文、各種シンポ・研究会の準備などなど、いろいろあったのだが、この半年はあっという間であまり覚えていない。いろいろといっても、今年は大学内であれこれ動いていたためかも知れない。そのため、学外へは、卒論の資料調査以外ほとんど出ていないように思う。このサイトについてもリアルタイムでの更新は殆どできなかった。
 家族全員で出している年賀状には「これまでの成果をまとめる年になりそうです」と書いたが、こうした混沌とした状況で、何一つ成果は形になっていない。
 本来、今年一番の成果は卒論、というべきところだが、年末のこの日になっても完成していない。現在人類学の本を片手に文章を見直し、図・表を整えている最中である。年明けには資料見学も待っている。
 入学と同時に手伝い始めた学術フロンティア事業は5年間の期限が今年度で終了する。そのため、従来の事業報告に加え、柴田常恵写真資料目録1、大場磐雄写真資料データベース1、研究論集、5年間の成果報告書など、今年度後半に相次いで成果報告を出すことになっている。完成すればそれなりの価値を持った資料集になるはずである。しかし、実はまだどれも完成していない。

 これらの成果については来年に引き伸ばすとして、今年も多くの方にお世話になった。最後にお礼を述べておきたい。

12月21日〜24日(日〜水) お札配り
 國學院大學は言うまでも無く神道系の大学であり、年末年始には神社からのアルバイト募集がある。これを助勤というのだが、昨年は京都の伏見稲荷大社へ行き、全国5位の人出の中でお札・お守りを頒布するという経験をした。今年は締め切りに間に合わず年始の助勤はあきらめた。その代わりという訳ではないが、日ごろお世話になっている杉山林継教授が宮司を務める神社のお札配りをお手伝いした。
 その神社は、千葉県富津市の八雲神社であり、日本武尊・景行天皇による草創伝承を持つ旧郷社である。岩坂山という山の上に鎮座するが、岩坂(いわさか)という地名は興味深いが、当日は忙しかったのでその由来について確かめることはできなかった。
 神社は管轄地域の住民全てを氏子とみなしているため、新宗教の信者や寺院などを含めて基本的には全戸廻る。新しい家や一部の他宗教信者を除けば、概ねお札を有難く受け取ってくれる。別に特段信じているということでもないだろうが、正月を迎える上では欠かせない習慣になっているのだろう。祠の傍らの木を切りたいのだがどうしたらよいのか、などの質問を受けることもあった。これまでに民俗学研究会などの民俗調査で、そうした習慣に限りなく近い素朴な信仰に数多く接してきたが、神社での助勤は、それに応じてきた宗教者側に目を向けるいい機会である。


12月20日(土) 下宅部遺跡の土器焼き
 遺跡公園の愛称も決まり、会名もそれに合わせて変更した「しもやけべはっけんのもりを育てる会」に久しぶりに参加した。今回は土器焼きであり、発掘の終わった下宅部遺跡で行われる。既に東側は都営住宅が完成し、入居が始まっている。この中でどのような遺跡公園になるのだろうか。
 私にとって土器焼きは初めての体験である。整形までは何度かやったことがある。その時は、なかなか上手く作れなかったのに、今回行 ってみると並んでいたのは、みな見事な出来栄えである。周りに火を焚き、徐々に暖めていく。今回は金山喜昭氏に率いられた法政大学博物館学課程の学生たちも見学に来ていた。
 焼きあがるまでの間、8人程の中学生による看板作りの議論があった。これまでに東村山の中央公園や大森貝塚遺跡公園などを見学してきた彼女らは、遺跡公園に相応しい看板についてバリアフリーの観点も含めて積極的な発言があった。
 さらに、引き続いて育てる会の例会も行われた。ここでは、愛知万博に登場する「トトロの家」を東村山に誘致しようという話もあり、盛り上がった。
 夕方、戻ってみると土器は焚き火の中で焼かれており、まもなく焼き上がった。結局、今回は土器焼きの具体的な手順を学ぶことはできなかったが、来年の公園オープン後毎年土器焼きを行う予定になっており、それらを通じて経験を積んでいけばよいだろう。



12月3日(水) 卒業論文を提出して

 今日、卒業論文を教務課に提出した。題目はお伝えしているように、「縄文時代後期における葬墓制の研究」というもので、細かく言えば、「西南関東における小形土器副葬行為の社会的意味」というような内容である。
 表紙の図は、その副葬された小形の舟形土器の一例である。1935年に八幡一郎氏らによって人類学雑誌に報告された秦野市寺山遺跡のもので、卒論中では「おそらく最古の報告例」として紹介したものである。実物は見ていない。東大あたりにあるのだろうか。
 本サイトを通じてお世話になった方々も数多く、そうした皆様にはぜひとも見ていただきたいと思っている。しかし、まだ図や表、事実記載、文章構成など大幅に手直ししなければならない。できれば、未報告資料を含め、見ておきたい資料もまだある。

 ともあれ、ひとまず落ち着いたので、サイトの更新を再開することにした。9月以来2ヶ月以上この日記ページも書かずにきた。卒論をはじめ各種のお手伝いで、日記に書くことは少なかったとはいえ、これから思い出しながら書くのも一苦労であろう。
 そういえば、民俗学関係の卒論の過程と全文をWeb上で公開している人がいた(岳の卒論「はじまりのフィールドワーク」 )。とくに参考にしたわけではないが、かつて読んだときには、なんとなく「卒論」というもののイメージを得た記憶がある。しかし、いざ自分が卒論を書いてみると、こんなこまめな記録はとても付けられない。あまり公表できないような諸事情もある。ただ、この一年を通じて主に構成の部分を何度も改めた。一部は卒論メモとして公開しているが、実際にはその数倍の変更がある。そうした部分を含め、上記の手直し作業が終わったのち、何らかの形で卒論関係データを残しておくことは、先輩方に見られると恥かしい限りであろうが、後輩のためには良いかもしれない。

 ところで、ここ数ヶ月の間に、加藤有次先生、稲生典太郎先生が相次いで亡くなった。私は、加藤先生の授業はついに受けることができず、昨年度末の最終講義の1回のみ話を聞いただけである。考古学資料館には多少出入りしていたので、いずれ個人的にお話できると思っていたのだが、その機会を逸してしまった。稲生先生は、大場磐雄写真資料の整理にあたって大場先生のメモを解読してもらうため、しばしばお呼びしていた。ただ、あまりお話はしていない。大場先生の思い出話や、稲生先生の研究のお話など聞いておけばよかったと思う。お二人とも、せっかくの接点を逃してしまったことは残念でならない。


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