管理人の日記 〜2005年5月〜先月日記トップ翌月
5月26日(木)〜29日(日) 関西にて大学をまわる
 学術フロンティア事業に関して、5月27日(金)花園大学で行なわれた報処理学会人文科学とコンピュータ研究会で発表させていただくことになり久しぶりに関西を訪れた。発表が主目的であるが、せっかくの機会を利用し、奈良・大阪に住む友人を訪ねることにした。本来は関西の縄文後期の土器でも見られれば良いのだが、そのような施設の検討がつかなかったため、あまり計画を建てずに行ったところ、両人の大学を含めて、いくつかの大学を見てくることとなった。
 26日は、夜行バスで早朝に京都着。施設はどこも開いている時間ではないので、まずは下鴨神社、続いて吉田神社に参拝した。後者は、天神地祇八百萬神を祀った八角形+六角形の後房を持った建物という大元宮を見てみたいという動機であった。中世に興った吉田神道の根本道場というから厳かな立地かと思いきや、目の前に車道が通っていたのは意外であった。なお、毎月1日には内院参拝が可能ということであったが、今回は六角形の後房を拝することはできなかった。
 次いで、麓の京都大学へ。キャンパス内を一通り散策して京都大学総合博物館の開館を待つ。9:30の開館とほぼ同時に、やや高めと思われる観覧料300円を支払い中へ。自然史系・技術史系の展示と、文化史系展示とに大きく分かれている。前者では、霊長類学、栽培植物の起源など馴染み深いテーマも並ぶ。後者では、縄文時代後期の土器が並んでいなかったのが残念であるが、唐古や須玖岡本の資料は興味深いものであった。また、企画展として「考古学を愉しむ!?」という展示も行われていた。「考古学の方法」を展示するという目的であったが、瓦の細かい部分の共通性を頼りに同時期性を決めていくという手法を、瓦とその特徴を示したプレートを、共通性を表示するための色分けされた線で結ぶことで表現したもので、残念ながら非常に難解な印象を受けた。同目的の展示はしばしば見かけるが、いずれも単純な例を用いることが多い。本展示は、一見して区別がつかないような瓦という素材を用いたところがミソなのであろうが、私の舌には合わなかったようである。
 この後、大谷大学博物館を見る予定であったが入館料200円を惜しんで入館せず。4月に行なわれていた「大谷大学のあゆみ −大学の前身・学寮の時代−」は興味があったが、今回の「仏教の歴史とアジアの文化」というテーマは敢えて見たいとは思わない。京都府立大学をみながら、京都府立総合資料館へ。ここで府内の報告書等修論関係文献を複写し、まだ早いが、ホテルへ。早朝から歩きつかれたので、しばし休養。夕方より講師の方達と懇親会へ。

 27日は花園大学での研究会である。全体的に理系の発表と文系の発表とが内容的にも区別されており、前者は資料の扱いといった前提面で問題が指摘されるものが多く、後者は文系の人間としては当然の話が多かったように思う。文系の問題意識を理系的な方法で処理することで新たな研究を進めるというのが、この分野の理想であると思われるが、こうした発表は意外に少ないという印象を受けた。我々の発表も、学術調査資料の整理の実践例と課題という全く文系的な話に終始してしまったが、次回は、技術的な内容も含めて発表できるよう、研究を進めて行くことが必要であることを実感した。

 この日は、奈良先端技術大学院大学に通う、高校時代の友人に泊めてもらった。彼には、大学時代にも松本、上田でお世話になっている。大学は生駒市内の山の中にある。向こう側の台地上には住宅地が広がるが、その他には周囲に何もない環境である。敷地の大部分を宿舎と駐車場が占めているという印象を受けた。学生証があれば24時間大学施設が利用できる。本の多くも電子化され、宿舎から閲覧可能とのことである。フィールドワークを伴わない研究には最適な環境であろう。研究についても色々聞いた。英語学習支援、論文の発表方法、データの帰属、研究内容と就職先の違いなど、同じ大学院生であっても研究生活には大きな違いがあるようだ。

 夜遅くまでしゃべり続けて、翌日はほとんど何もせず、次の宿泊地に向かった。都出比呂志先生に憧れて?大阪大学に移った大学の同期生の家である。なんと阪大は日曜日でも大学が開いているという。ゼミでの発表直前にお邪魔してしまったのだが、発表準備のため29日も研究室に行くというので、案内してもらうことにした。総合学術博物館は休館日であり、考古学研究室と実習室を案内してもらい、数人の院生・学部生とも挨拶を交わすことができた。圧倒的多数が弥生時代以降を研究テーマとしており、専門分野の話はできなかったが研究室の様子などお話しすることができた。また、阪大では夏の考古学実習の様子を毎日インターネットで速報しており、新潟県山下遺跡の調査などでも話題になっていた。その担当という院生にもお会いすることができたので、今後そうした方面でも教わることができるかもしれない。
 いずれにしろ、この4日間の諸大学の見学、諸大学生との交流は、普段、大学内に引きこもっていることが多い私には非常に新鮮なものであった。
京都大学総合博物館
京都府立総合資料館
奈良先端技術大学院大学
大阪大学考古学研究室


5月22日(日) 日本考古学協会総会図書交換会

5月8日(日) 遠部台遺跡と「東アジア中世海道」展
 国立歴史民俗博物館で開催中の特別展「東アジア中世海道−海商・港・沈没船−」を見に仲間と共に佐倉へ行ってきた。
 これまで西関東の遺跡・土器ばかりを見てきた私としては、東関東の遺跡や土器を実感したいと考え、最近は千葉・茨城方面への見学を心がけている。その一環として、仲間に無理を言って午前中は、印旛沼南岸の後期の遺跡踏査として、遠部台遺跡、曲輪ノ内貝塚の2ヶ所を見学した。遠部台遺跡は1932年に大山史前学研究所により発掘調査で土器塚が発見された遺跡であり、その出土遺物は山内清男氏による加曽利B2式設定の材料となった、学史上重要な遺跡である。1999年からは阿部芳郎氏を中心とする明治大学の調査が行なわれ、土器塚の形成過程解明が図られた。現状は畑地であり、私達はその周辺を一回りしたが、その一角には土器片が非常に密に散布しており、話を聞いていた私も実際にそれを見ると驚きを隠せなかった。明大の調査地点は畑地内部で足を運ぶことはできなかったが、おそらく、より多量の土器片が認められるのであろう。次いで、近接する曲輪ノ内貝塚へと移動した。こちらも近年明治大学が調査を行なっている。こちらは、阿部氏によって、環状盛土遺構に類似する形態として「谷奥型遺丘集落」と呼称されているもので、確かに中央窪地とその周りに高まりが残されている。この点は、数年前に訪れた同じく佐倉市内の草刈堀込貝塚や、昨年見学した馬場小室山遺跡と同様であるが、縄文時代の集落景観が現在まで残されていると考えるのか、もともとの自然地形であったと考えるのかで、当時の社会背景の理解も大きく異なってくる。明大の調査によれば、高まり部分からローム土は認められず、基本的には自然地形利用の累積として形成されたと推定されている。いずれにしろ、発掘調査が行なわれたのは、これらの遺跡のごく一部に過ぎない。隣接する江原台遺跡は住宅地と化してしまったが、このまま地形を残した状態で遺跡が保存されることを望みたい。
 午後からは当初の目的だった歴博の「東アジア中世海道−海商・港・沈没船−」へ。日曜日ということもあって駐車場はかかなり混んでいた。既に14時近い。常設展を見ていない人もいたのでとりあえず第1室を見学してから特別展へ。
 展示資料は、陶磁器が多数を占め他に銭や書状などがあったが、その点では強い関心を抱くものではなかったが全体としては面白い。例えば、沈没船から引き揚げられた資料ということでみると、そのセット関係や荷造りの仕方、船での積まれ方、さらにその調査法などが興味を引いた。

国立歴史民俗博物館:「東アジア中世海道−海商・港・沈没船−」

縄文学研究室日記トップCopyright (c) 2005 Nakamura Kousaku
E-mail:info@jomongaku.net