民俗社会における墓制の変化とその背景縄文学研究室トップ研究ノートトップ
国学院大学民俗学研究会春合宿研究発表2002.3.28

 本稿は、民俗学研究会の2002年度の春合宿の研究発表原稿である。対象地区の報告書は編集作業中であるため、Webでの公開にあたっては地区名等はイニシャルで代用したり一部省略するなどの編集を行っている。(02/10/20)

民俗社会における墓制の変化とその背景 −青森県での事例−

1.はじめに

 聞き書き主要な方法としてきた民俗学において、墓制の研究は墓地・墓標その他の施設・副葬品等の有形資料も聞き書き資料と並ぶ主要な研究対象となってきた。こうした点は私の専攻する考古学の方法とも近いものである。
 昨年の春合宿においては、民俗学と考古学の協業というテーマで、現存墓地に対する研究状況と近世墓の調査事例を紹介したが(註1)、その後は実地で調査したデータをもとに具体的な分析を行うことを目指した。
 今回、取り上げるのは昨年度の調査地である青森県のある地区の事例である。この地区においては近年一斉に「先祖代々之墓・○○家之墓」を建立しており、私はその背景を明らかにすることを調査の目標とした。
 昨年、10月には夏採の成果をもとに、「民俗社会における墓地景観の変容」と題した個人発表(註2 以下、前回発表と呼ぶ)を行ったが、今回はその後に得られた資料を加え、再度検討していきたい。

2.対象地区の概況と資料

(1)対象地区の概況
(省略)

(2)資料となりうる情報
 このような事象を検討する場合の資料として、1聞き書き資料 2文献資料 3物質資料 4絵図・写真・映像資料 などの種類の情報が考えられる。それぞれ民俗学・文献史学・考古学・(歴史地理学)が主として扱う資料であるが、可能な限り併用することが望ましいのはいうまでもないだろう。とはいえ今回の調査時には規則類、穴掘り帳等の文献資料や写真資料までは手が回らなかった。今後の調査ではこうした資料の探求も試みたい。
 次に、その対象としては、Aムラ人 B宗教者 C行政 D石工・火葬場等の業者 E墓地・墓 があげられよう。それぞれの関係について述べると、ムラ人が業者に依頼し、その結果として墓地・墓が存在することになる。宗教者はムラ人に助言をしたり、業者の紹介をしたりする。また、行政によってムラ人や宗教者に指導が行われることがある。なお、ムラ人はムラ組織の構成員という立場と、各家毎の立場という2つの立場を兼ねた存在であり、必要に応じてその立場を明確にしておくことが必要であろう。我々が見ることができる墓地・墓の姿は、上述の4者およびその他の要因によって成り立っていると考えることができる。
 以上のように整理した上で、今回の発表の基礎資料について述べておきたい。主要な資料は墓の形態と記銘(3E)および、何人かの話者(住職の妻を含む)からの聞き書き(1A・1B)である。これらは筆者の調査ノートおよび2月23日までに提出された会員諸氏の調査カードのうち「葬制」「墓制」の資料として提出されたものに基づいている。なお、墓制に関わるイタコの話は未確認である。

3.墓地の概要

(1)墓と墓地
 墓といっても、「墓」と「墓地」の2つのレベルがある。対象地区においては、地元の方々は「ハカショ」と呼称するが、これも墓地全体をさす場合と、個々の墓を指す場合の両方がある。ここでは便宜的に、各家毎に定められた埋葬用の一定の施設およびその区域を「墓」、墓の集合している区域を「墓地」と呼ぶことにしたい。
 前者は、一定の外部の影響はあるものの、直接的には各家の事情のよってあり方が異なってくるもので、私的な性格を有する。一方、後者のあり方は墓地組合、寺院、自治体等によって決定付けられる、公的な性格を有するものである。

(2)各集落の墓地の現況
 対象地区では、集落ごとに共同墓地を持っているほか、近年寺院裏に寺が管理する墓地が設けられている。このうち調査・考察の対象としたのは以下の7つの墓地である。なお、名称はいずれも調査時の便宜的呼称である。

《SA地区の墓地》
 集落内を南北に貫く道路があり、南の入り口部の小高い丘の上に墓地が立地している。北の入り口部に神社があるのと対照的である。確認できた墓は37基で、ほとんどが集落方向を向いて立てられている。

《SK地区・M地区の墓地》
 SK地区集落中央部の斜面上に立地する。M地区の墓もここに作られており合わせて31基が確認できた。南西方向にひらけた斜面に沿って墓が立てられている。聞き書きによると新しく分家した家もそこに墓地を買い求めたということである。

《N地区共同墓地》
 集落中央部の寺院裏に共同墓地が設けられている。もと中世の館跡で、堀状の段差が残る。これを利用し南北方向に2列の墓道が設けられ、その両側に墓道を向いた状態で約45基の墓が立てられている。また、それとは別の1つ高い一角に10基の墓が設けられている。

《N地区寺院墓地》
 N地区共同墓地のさらに北側を整地して1980年代に寺院墓地が設けられた。まだ空きが目立つが60〜75ほどの区画が明示されている。ここにはN地区地区の住民以外の墓もあるということだが、現在39基の墓が確認できる。

《H地区の墓地》
 N地区からH地区へ向かう道の途中の坂の脇、H地区集落とは反対方向の斜面上に立地する。三段の雛段状に整地され、19基の墓が確認できた。
 この墓地については、以前は小さな石塔があったこと、埋まる場所は各家ごとに決まっていたこと、H地区では、昔から、カマドが出るのを見越して綺麗に24区画とってあったこと、などのお話を伺っている。

《O地区の墓地》
 H地区からO地区へ向かう道の脇、南側に広がる斜面上に立地する。6段ほどの雛壇状に整地され、最上部の3家の墓以下、約30基の墓(区画)が認められた。他の墓地に比べ、最近の土葬墓が多く見られた。O地区では葬墓制に関する聞き書きは行っていない。

《O・Y地区の墓地》
 O、Y両地区のほぼ中間部分に設けられている。降雪の中で調査したため見落としも多いかもしれないが、14基を確認することができた。2列に並んだ墓が中央を向く形で立てられている。

対象地区における「先祖代々之墓・○○家之墓」建立数の変化

4.事象:「先祖代々之墓・○○家之墓」の一斉建立

(1)石塔調査の方法と結果
 墓制の変化といっても様々な変化があるが、今回の発表で直接対象とする変化は「先祖代々之墓・○○家之墓」の建立である。ここでは、各墓地の石塔調査で得られた記年銘のデータを提示し、さらに聞き書きで得られた変化の様子やその理由を紹介する。
 なお、「先祖代々之墓・○○家之墓」というのは、ここ数年に限っていえばカロート(地下納骨施設)を伴うものであるが(H地区の聞き書き資料参照)、古い事例に関してはそうではないので、ここではあくまでも「先祖代々之墓・○○家之墓」などと記された石塔の建立を問題としたい(註3)。
 7つの墓地のうち未使用区画を除いて、225区画を識別した。土葬の場合や外柵を共有している場合などもあり、その数は厳密なものではないが、この区画数と先に紹介した世帯数はほぼ対応している。今回の発表では、この区画を「墓」として最小分析単位とする。また、このうち今回分析の対象とする「先祖代々之墓・○○家之墓」は188基であった(表1)。
 これらの墓について簡単な見取図を作成した上で、墓のパターン(註4)、A〜Dについては中心に置かれている石塔の建立年と建立者を調査した(註5・6)。
 結果は表2、グラフ1に示すとおりである。これをみると、N地区およびO・Y地区において1965年以前の例が見られるものの、多くは1990年以降に建立されている。但し、SA地区・SK地区・H地区・O地区・N地区共同など多くの墓地においては1971年から75年にかけて小さなピークが認められる。

表1 対象地区の墓数および「先祖代々之墓・○○家之墓」数

SA地区SK地区H地区O地区N地区共同N地区寺院O・Y地区総計
総数37311930553914225
分析対象数36241820393312182


表2 対象地区における「先祖代々之墓・○○家之墓」建立年
建立年SA地区SK地区H地区O地区N地区共同N地区寺院O・Y地区総計
〜1965



2
13
〜1970111


14
〜197552223

14
〜1980411
1

7
〜1985511542119
〜1990723249
27
〜199591112810950
〜20005499178
52
2001
2


4
6
総計36241820393312182


(2)聞き書きデータ
 次に、こうした事象に関わる聞き書きデータを紹介する。

・SA地区では二十年程前にH氏の家が、一番初めに新しくして、その後周りの家も真似て新しくした。(SA地区)
・墓を作り変えて、古い墓石はどこかへやってしまった。石の台は今の墓の周りに置いてある。(SA地区)
・以前は一人ずつ、または夫婦で一基あったが、場所が狭くなった、土葬でなくなり納骨するだけでよくなったなどの理由で、一つにしても構わないということになり、建て替えた。古い墓石は和尚に魂抜きをしてもらい、普通の石にしてから引き取ってもらう。(N地区)
・墓の建て替え:自分たちのだけでなく、子孫もちゃんと入ることができるように。(N地区 住職妻)
・「ハカショ作った」「コツドにした」と表現。五年位前に皆で相談し、話者の家が最初に変えたという。土葬でやれなくなったこと、和尚(先代)が言ってきたことによるという。この和尚の考えは、良いものだと評価していた。(H地区)

 これによると、理由として、場所が狭くなったこと、土葬でなくなったことが理由として挙げられている。またカロートを設けることで、子孫のためにもなるという理由もあったようである。また、この変化にあたっては先代住職の関与が大きいことも伺わせる。
 以下、理由としてあげれられていた2点についてもう少し細かく見ていきたい(註7)。

5.一斉建立の背景

(1)墓地の変化
 まず理由の一つに挙げられている「場所が狭くなった」について考えてみたい。
 この問題を考えるにあたっては墓の置かれている場である墓地について見ていくことが必要である。墓地の変化に関しては以下のような聞き書きが得られた。

・墓所は三十年位前に集めてきた。(N地区)
・もともとあちこちの山にあったが、40〜45年位前に今の墓地を広くして、集めた。(N地区)
・以前は高いところ、低いところあったが、近年整地した。(N地区)
・SA地区の墓はもともと各家の敷地内にそれぞれ持っていたが、一つにまとめて今の場所に集めた。(SA地区)

 つまり、N地区とSA地区においては、かつて別の場所にあった墓を集めてきたということである。
青森県郷土館の調査報告によると、世増・畑内地区では明治20年ころまでは各屋敷に墓があり、以降お達しによって共同墓地に葬るようになったという。また同書によれば昭和30年頃から屋敷内の墓を共同墓地に移すことがはじまり現在では多くの家がそうしているという。とすれば、O地区・H地区・SK地区・O・Y地区などの墓地も、少なくとも明治以降、おそらくはN地区や世増・畑内地区と同様に昭和30年頃に画期が求められる可能性が高い(註8)。
 それ以前の状況については不明であるが、新たに死者が出た場合、墓域の拡張などは各家で独自に行うことができたと思われる。それが、共同墓地になると家毎の区画が定められ、その中で行わなければならなくなる。一箇所の墓地に多数の埋葬・石塔の建立が行われ「狭くなった」のはここ数十年の現象ということができよう。
 また、ほぼ同じ時期に共同墓地化されたため、同じ時期に「狭くなった」ということになる。このように近年の墓地の変化の遠因は、共同墓地化という以前に行われた変化に求めることができよう。

(3)葬儀の変化
 次に、2つめの理由として挙げられている土葬から火葬への変化について考える。火葬への変化については、わずかに

・火葬の場合の流れ:火葬→通夜→葬式。友引等でなければ、亡くなった日を入れ五日目に行う。(N地区)
・通夜は火葬した日の晩に行う。仕出屋の料理や酒。(H地区)
・火葬になったのはごく最近である。(年代は分からない) (SK地区)
・完全な火葬になってから、まだそんなに経っていない。(SK地区)

 という聞き書きがあるばかりである。明確な年代を抑えることができなかった上に、なぜそうなったのかについての理由らしい理由も聞くことができなかった。ただし、結果として埋葬から納骨へと遺体を納める行為が著しく簡単になり、必要なスペースも明らかに少なくて済む。おそらくはそうしたメリットを意識した上で変わっていったのではないだろうか。

6.まとめ

 極めて乏しい資料をもとに、墓の建て替えとその背景について考えてきた。墓地の変化、火葬への変化は、もちろん建て替えの直接の理由ではないし、他にも情報化・都市化などといった要因はいろいろあるだろうが、それでもこの2点は要因の大きな部分を占めると思われる。
 以上のことをまとめておく。対象地区では明治時代〜昭和30年代に従来の家ごとに設けられていた墓を集めて共同墓地化した。しかし、年月が経つにつれて、使用できる区画が家毎に定められている共同墓地の性格上、従来のように個人・夫婦単位で行われていた石塔の建立を行うと限られたスペースが狭くなってしまうことになった。折りしも土葬から火葬への変化に伴い1人分の納骨スペースが少なくて済むようになった。このような背景の元、1990年以降、カロートを伴う「先祖代々之墓・○○家之墓」を建立する家が相次ぐことになった。これは、スペースの問題と共に、その都度石塔を建立していた費用の軽減にもつながるものでもあった。

7.おわりに

 報告書や市町村史、あるいは葬墓制の変化を扱った論文などで、しばしば「伝統的な葬法」という表現が用いられることがある。深い意味づけはされていない場合が多いと思われるが、そうした葬法がどの程度の「伝統」を持つのかは全く不明である。
 今回、私は「先祖代々之墓・○○家之墓」建立の要因をつい最近の火葬への変化と、数十年前の共同墓地の成立に求めた。土葬から火葬の変化だけでは「狭くなった」理由を説明できないからである。さらに共同墓地以前を考えるには、例えば個別に石塔を建立する慣習の成立を問題にしなければならないだろう。
 葬墓制に限ったことではないが、一定の慣習はそれ以前の慣習とその変化に伴い生まれたものであり、やがて何らかの理由で変化していくことの繰り返しである。民俗の歴史性に注目する場合は、こうした変化の内容と過程を明らかにしていくことに加えて、その背景を考えていくことが必要であろう。

 最後に、私の関心事についての調査・情報提供に協力していただいた対象地区の皆様および会員の皆様には心から御礼申し上げます。


1):「近世墓地研究における民俗学と考古学」
 この時には、墓地を取り上げる理由として「墓(墓地)は、民俗学・考古学などの最大の関心事である「死生観」を体現したものであること、形として残っていること、偶然残った資料ではなく意図的に作られたものであること、そのため文献にも記載があること、民俗学において珍しい物質資料で、しかも時間変遷がらみの資料であることなどの特徴がある。以上の理由から、さまざまな学問的立場でアプローチできるという点で、墓地を取り上げたい。」と述べておいたが、今回の発表も基本的な姿勢は同じである。

2)「民俗社会における墓地景観の変容」
 前回発表は、@墓制研究の視点として欧米の考古学理論と、それを導入した日本の近世・近現代墓研究を紹介 A対象地区の「先祖代々之墓・○○家之墓」建立年データの提示と若干の考察 B冬期採訪の課題

3)ここで扱うのは現在存在するものである。それ以前に類の石塔が建てられたとしても、カロートと共に新たに作りなお押す場合は多い。なお用語の問題であるが、自然石・生木・木墓標などを含めた総称として「墓標」、その下位の概念として「石塔」を用いる。

4)墓のパターンは便宜的に以下のように定めたが、今回は分析しない。
  A:「先祖代々之墓・○○家之墓」石塔+古い石塔+外柵
  B:「先祖代々之墓・○○家之墓」石塔+古い石塔
  C:「先祖代々之墓・○○家之墓」石塔
  D:その他石塔
  E:土饅頭

5)N地区・H地区・O地区・SK地区・SA地区については2001年8月の筆者調査(ただし、SA地区の建立年は同月のN氏・K氏調査)、O・Y地区については同年12月の筆者調査に基づく。判読不能の箇所は無記入としたが、一部誤読の可能性もある。

6)なお、墓の配置・建立年と本分家関係についても分析したかったが、手元に資料がないため今回は見送る。可能であれば『民俗採訪』において試みたい。

7)長野県佐久地方における同族祭祀と「カロート」の新設を研究した上杉妙子氏は、その要因について、巨視的視点として火葬の普及・経済力の向上をあげ、さらに個別の事情についても注意している(上杉1995)。今回の分析では巨視的な視点のみとなってしまうが、本来、個別な視点と併用することが必要であろう。

8)森謙二氏によると、明治以降、税金上、衛生上の理由等で墓地はなるべくまとめようとするのが行政の基本方針であるという(森1993)

参考・引用文献
・青森県立郷土館 1989 『世増・畑内の民俗』青森県山村民俗調査報告書1(青森県立郷土館調査報告24・民俗12) 
・上杉妙子 1995 「長野県佐久地方におけるカロートの共用」『信濃』47-1
・中央大学民俗研究会 1979 『常民』17 青森県三戸郡南郷村島守地区調査報告書 中央大学民俗研究会
・前田俊一郎 1999 「地域社会における墓制の重層的構造 −近代以降の共同墓地と公園墓地の形成をめぐって−」『常民文化』22
・森 謙二 1993 『墓と葬送の社会史』講談社現代新書 講談社
・山田慎也 1995 「葬制の変化と地域社会 −和歌山県東牟婁郡古座町の事例を通して−」『日本民俗学』203 日本民俗学会



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