太陽と山と縄文人縄文学研究室トップ研究ノートトップ
★2000アクセス突破記念★ 三内丸山遺跡 冬至の日の入

1.はじめに

 最近、縄文人が山や太陽運行を意識していたとする「自然の社会化論」や「縄文ランドスケープ論」が唱えられるようになってきた。国学院大学の小林達雄教授を中心とした研究会も発足し、各地から相次いで類例が報告されている。だが、この問題についての本格的な研究は公にされていないようである。
 これまでに私が知った例は20件ほどであるが、その紹介と、それをまとめているうちに気付いた点をいくつか述べてみたい。

 本来ならば、報告された事実について私自身が検討しなければならないのだろうが、残念ながらそれは無理なのでここでは報告されたことをそのまま紹介する。ただし、必ずしも正しいとするものではない。類例・参考文献は文末にまとめてある。


2.従来のランドスケープ論との比較

 ここでは、最近になっていろいろ指摘されてきた現象について述べる予定だが、縄文遺跡と自然(景観)を結び付ける視点は従来からあった。導入部分として、まずそれらを紹介する。

配石遺構と山
 代表的なものは、配石遺構の近くには富士山型の山があるという指摘である。(江坂1973・堀越1998など)
   大森勝山遺跡−岩木山
   大湯環状列石−黒又山
   釜石環状列石−姫神山
   佐貫遺跡−高原山
   下谷戸遺跡−大山
   千居遺跡−富士山
   牛石遺跡−富士山
   金生遺跡−八ヶ岳
 これらは配石遺構の性格を考える上でそれなりの根拠となっていた。山岳信仰が想定されたのである。しかし、全ての例には合致しないとする否定的な見解もある(阿部1983)。よく考えればこれには何の根拠もないのである。日本において山の見えないところなどないし、ほとんどの山には神が祀られているのだから。

頭位分析
 次に、埋葬の頭位方向の研究がある。埋葬の頭位方向は一見するとバラバラに見える。これが自然の地形に任せたものか、縄文人の意志によるものかをめぐって議論された。しかし、東西方向を冬至・夏至の範囲(約60度)まで拡大して考えると、ほぼ東西に頭位方向が揃うという分析である。御殿山遺跡・札苅遺跡では、ほぼ東西の範囲内にあるとされ、太陽の登る或いは沈む方向を意識したと説明された。(藤本1987)
 ただしその後、社会構造(双分制)の研究の中で、頭位が東西方向とそれに直交する南北方向の2群に分かれるという研究が出てきている(林1978)ので、全て太陽を意識した埋葬でないことは明らかである。

従来のランドスケープ論との比較
 これらの研究と比べると、最近のランドスケープ論は大きな違いを持っている。
 いうまでもなくそれは遺構を結ぶ線、或いは太陽運行線を根拠とする、より積極的な仮説である。以下その例の紹介と、疑問点を呈示してみたい。


3.遺跡の種類

 まず、報告された遺跡・遺構をその種類で分けてみたい。

 《配石遺構もしくは配石を主とした遺跡》
  樺山・松原・阿久・道添など
 《特に環状配石を主としたもの》
  石倉・小牧野・大湯・伊勢堂岱・天神原・野村・田端・牛石・大柴・宮久保・アチヤ平など
 《木柱遺構》
  三内丸山・チカモリなど
 《盛土遺構》
  寺野東など
 《拠点集落》
  砂押・極楽寺・不動堂など

 このように、現時点においては、ほとんどがモニュメント・精神文化に関わるとされる遺構・遺跡であり、特に環状配石が多いことが注意される。この現象の性格を考えていく上で重要な手がかりとなるだろう。環状列石の用途については古くから祭祀か墓地かという二者択一論で争われ最近は墓地という見方が優勢のようだが、これについても考えを見直す必要があるかもしれない。
 しかし、砂押遺跡や不動堂遺跡など拠点集落などからも報告されていることから、今後の研究で変わる可能性もある。


4.現象の分類

 次に、報告された現象について見てみる。

 《A.天体運行に関わるもの》
  [a.遺跡から特定の日に特定の場所から日が昇ったり、そこへ日が沈んだりする例]
   樺山・砂押・天神原・野村・寺野東・牛石・大柴・アチヤ平・極楽寺・不動堂など

  [b.遺構の特定の地点を結んだ線が特定の日の日昇線・日没線と一致する例]
   石倉・三内丸山・小牧野・大湯・伊勢堂岱・宮久保?など

 《B.遺構の軸が特定の場所を向いている例》
   松原・天神原・田端・阿久・チカモリ・道添など

 《C.南北軸が整っている例》
   伊勢堂岱など

 今のところ、以上のように分けることができる。このうちCの南北軸の問題は後回しにして、まずAとBについて考えてみるとこの2つは大きな違いがあることに気づく。

 Aは「縄文人が天体観測を行っていた」ということに繋がるもので、この点を巡っていろいろ論点が出てくるだろう。またAをさらにa・bに分けたが、aは遺跡の位置の選定に関わる問題であるのに対して、bは遺構を作る段階で関わってくる問題であり、両者は混合しないほうが良いだろう。
 いずれにしても、今後のランドスケープ論はこのAの現象についての研究が主となるものと思われる。

 これに対し、Bは浅間山、八ヶ岳の蓼科山、丹沢の蛭ヶ岳などいずれも高峰で、その地域を代表する山の一峰である。今、具体的な根拠を挙げられないが、縄文人の何らかの思いが反映していると見て良いと思われる。逆に、これを偶然と考えるのは難しい。


5.問題点の整理

縄文人の天体観測
 まず、縄文人が天体観測をしていたか、というそもそもの疑問がある。
 天体観測とはいっても、現在指摘されているのは太陽運行についてのみであり、小林達雄は、田舎の作業員の証言やアイヌ語の地名などを元に、必ずしも難しいことではなく生活の一部であったということを強調しているが、この問題についての考古学的な客観的証拠を得るのは難しいだろう。

縄文人の意識は?
 はたしてどこまで縄文人の意識が反映されているかということである。最も基本的で、最も難しい問題である。BはともかくAについて「偶然だ(水野 1996など)」と言われる可能性は高い。
 指摘されている遺構は何れも長い時間をかけて作られたと考えられているが、最初から意識していたのか、あるいは途中から意識しはじめたのか、それとも全く意識していなかったのかなどを明らかにしていく方法を考えていかなければならない。大湯の日時計状組石や石倉の立石・列石など遺構の中で特徴的な部分が、天体運行と関わっている例があるが、このような場合は比較的分かりやすいので、類例をもっと集めていく必要があるだろう。

民族例・民俗例の不足
 また、これまで具体的な民族例の紹介がなされていないと思うが、大きな疑問である。冬至の祭りについての紹介はあるが(小林1998)、ここで問題となっている太陽運行と配石との関係などについての紹介は知らない。もしあれば大きな根拠となるだろうし、また無いのであれば縄文人にだけそういう意識があったとは思えないということになる。
 弥生時代以降にも、こうした指摘がないこともないが、いずれも学者の検討をうけたものではない。

南北軸について
 南北軸は春分・秋分の日昇・日没線である東西ラインと直交するという意味で、この問題に関わってくる。
 しかし、この問題は既に頭位分析などで双分論の材料として使われており、ランドスケープ論というより、むしろ当時の社会組織との関わりの中で議論されるべき問題だと考える。特にこの例として指摘されている伊勢堂岱の場合、南北の環状列石で配石方法が異なるのである。


6.おわりに

 以上、私なりの疑問などを述べてみたが、この問題についてはまだ日が浅く、きちんとした研究を求めるのは気が早いのかもしれない。  要因はいろいろあるが、1つには恣意的に見ているという批判があるだろう。私が知った例の多くが新聞報道によるものだということも気になる。しかし、群馬県安中市で既に4例の報告があるということは、決してその地域の特徴ではなく、もっとありふれたものであると考えることができる。
 最近になって、ようやく研究者がこの問題について本格的に取り上げたのだから、なんらかの成果が出されることを期待したい。


お願い
 このような事例はまだまだ多数あると思います。
 類例をご存知の方はぜひご教示ください。
 メールはこちらから



「自然の社会化」の例

      99.10.30現在 私が得ることができた情報による

【石倉貝塚】
 北海道函館市の後期の環状列石。
 中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
 また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。(北海タイムズ1996/1/7)

【三内丸山遺跡】
 青森県青森市の前期・中期の集落跡。国史跡。
 大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致。(小林ほか1998)
 写真:青森県のサイト

【小牧野遺跡】
 青森県青森市の後期の環状列石。国史跡。
 現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。(小林1996)

【大湯環状列石】
 秋田県鹿角市の後期の環状列石。国特別史跡。
 万座と野中堂の日時計状特殊組石を結ぶ線が夏至の日没線。(富樫1995・読売新聞1994/6/26)

【伊勢堂岱遺跡】
 秋田県鷹巣町の後期の環状列石。
 環状列石AとCが南北一列に並ぶ。(秋田魁新報1996/11/13)
 ※その後の調査で他にも環状列石が確認されており、この南北軸が特に意識されていたかどうかは微妙である。
 環状列石C:外環のまとまりが30度づつ区切られており、その区切りが、中心−直列石のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なる。(秋田魁新報1999/7/8)
【樺山遺跡】
 岩手県北上市の後期の配石墓群。国史跡
 春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。(小林ほか1998)

【中野谷松原遺跡】
 群馬県安中市の前期の集落。
 土壙墓の主軸方向の延長線に浅間山を望む。(大工原1995)
 写真:Archaeological-Laboratory内

【天神原遺跡】
 群馬県安中市の晩期の環状列石。
 中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義山に日が沈む。
 また、冬至には大桁山に日が沈む。(大工原1995)
 写真:Archaeological-Laboratory内

【砂押遺跡】
 群馬県安中市の中期の環状集落。
 環状集落の中央広場からみると、冬至に大桁山に日が沈む。(Archaeological-Laboratory)
 写真:Archaeological-Laboratory内

【野村遺跡】
 群馬県安中市の中期の環状列石。
 この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。(Archaeological-Laboratory)
 写真:Archaeological-Laboratory内

【寺野東遺跡】
 栃木県小山市の後期の遺跡。国史跡。
 環状盛土の中の円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。(小林1996・読売新聞1994/5/28)

【田端遺跡】
 東京都町田市の後期〜晩期の環状積石遺構。都史跡。
 冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。(原田1998)

【当麻亀形遺跡】
 神奈川県相模原市の後期の集落跡。
 敷石住居が皆西(丹沢)の方向を向いていると新聞で報道された。(神奈川新聞 朝日新聞)
 しかし、現説では担当者が、地形によるものとしてこれを否定している。

【水口遺跡】
 山梨県都留市の中期の環状列石。
 春分の日没が地蔵岳に落ちる。(Landscape Archaeologyのゲストブックへの今福氏の投稿

【牛石遺跡】
 山梨県都留市の中期の環状列石。
 春分の日没が三つ峠山に落ちる。(Landscape Archaeologyのゲストブックへの今福氏の投稿

【大柴遺跡】
 山梨県須玉町の中期〜後期の環状列石。
 夏至には金峰山から日が昇る。(読売新聞山梨版96/11/5)

【宮久保遺跡】
 山梨県長坂町の中期〜後期の環状列石。
 冬至の日没の方向への配石?。(読売新聞山梨版97/9/14)

【阿久遺跡】
 長野県原村の前期の集落跡。国史跡。
 集落中央の巨石列の延長線に蓼科山を望む。(小林編1995)

【アチヤ平遺跡】
 新潟県朝日村の環状列石を伴う拠点集落。
 夏至の日、朝日岳から日が昇る。(Landscape Archaeology

【道添遺跡】
 新潟県妙高村の中期の環状集落。
 妙高山に向かって石が一列に並んでいるという。(新潟日報94.9.8)

【極楽寺遺跡】
 富山県上市町の早期〜前期の攻玉遺跡。
 冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。(藤田1998)

【不動堂遺跡】
 富山県朝日町の中期の集落。国史跡。
 冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。(藤田1998)

【チカモリ遺跡】
 石川県金沢市の後期の遺跡。国史跡。
 ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。


参考文献

江坂輝弥   1973 「配石遺構と敷石遺構」『古代史発掘2 縄文土器と貝塚』講談社
林謙作    1978 「縄文期の葬制−第2部・遺体の配列、とくに頭位方向」『考古学雑誌』63-3
阿部義平   1983 「配石」『縄文文化の研究9』雄山閣出版
藤本英夫   1987 「縄文人の墓制と宇宙観」『世界考古学大系日本編補遺』天山舎
小林達雄編  1995 『縄文時代における自然の社会化』季刊考古学別冊6 雄山閣出版
富樫泰時   1995 「秋田県大湯遺跡」『縄文時代における自然の社会化』
大工原豊   1995 「群馬県天神原遺跡」『縄文時代における自然の社会化』
小林達雄   1995 「縄文時代の「自然の社会化」」『縄文時代における自然の社会化』
富樫泰時   1995b 「縄文人の天体観測序説」『東アジアの古代文化』
小林達雄   1996 『縄文人の世界』朝日選書 朝日新聞社
水野正好   1996 (石倉貝塚の報道のコメント 下記参照)
小林達雄ほか 1998 『縄文時代の考古学』シンポジウム日本の考古学2 学生社
藤田富士夫  1998 『縄文再発見−日本海文化の原像』大朽社
原田昌幸   1998 「縄文人と山」『季刊考古学』63 雄山閣出版
堀越正行   1998 「山と太陽」『考古学を知る事典』東京堂出版

水野コメント:
「縄文人が冬至などを意識していたと立証するには材料が乏しい。この遺跡が偶然一致しただけで、全国的なものではない。」とある。(『北海タイムス』96/1/7)

(1999.8.6)

=更新=
・99.08.18 三内丸山遺跡の写真追加(許可済)
・99.08.18 文献に富樫1995bを追加
・99.10.30 伊勢堂岱遺跡の環状列石Cの例を追加()

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