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6月23日(土) 「発掘された日本列島2001」
 授業終了後、江戸東京博物館で開催中の「新発見考古速報展 発掘された日本列島2001」を見に行った。今年で既に7年目。時がたつのは早い。会場に入ると宝塚1号墳出土の舟形埴輪を中心に形象埴輪がずらっと露出展示されている。舟形埴輪は各部分それぞれ組み合わせられたもので、意外に大きく感じた。
 旧石器時代では鹿児島県耳取遺跡の線刻礫。表面はなるほど下腹部に見える。ただ背面の線刻は少し見づらいのが残念だった。この線刻が何を意味するのか興味深い。縄文草創期に入ると、群馬県西鹿田中島遺跡の爪形文土器や多縄文系土器などが展示されている。昨夏岩宿の資料館で見せていただいたものだろう。ここからは堅果類も出土していたのか。先日分析結果が公表された北海道垣ノ島B遺跡出土の最古級の漆製品は土坑ごと展示されていた。やはり遺物は遺構とセットで見るのが面白い。しかし、これは何に漆が塗られたものなのだろうか。また、会場の解説に階層化という言葉が見えたのは注目される。岩手県崎山貝塚からは前期の開窩式銛頭が出展された。漁猟具についてはよくわからないが、これは小さいという印象を受ける。やはり、展示品と図録写真とでは背面の状態と大きさを実感するという点で大きく異なる。茨城県の中期の環状集落−宮後遺跡からはヒスイ大珠、ヒスイ玉、コハク玉が出展された。出土位置から頭位が墓域中心を向くことが推定されるという。山梨県桂野遺跡の「みさかっぱ」「ヤッホー」、そして長野県中ッ原遺跡出土の仮面土偶は昨年以来の対面である。特に仮面土偶は現場では遠目でしか見られなかったので、じっくり見ることにした。何よりも脚がでかい。頭〜胴〜脚と体全体が三角形を呈している。そして、底辺と同じくらいの長さの腕が全体のバランスを保っているのである。神奈川県稲荷山貝塚の骨角器は内湾部の遺跡でも外洋性海獣捕獲が行われていたことを示す。是川中居遺跡は掘ればまだまだ出てくるようだ。新聞報道された遺物が展示されている。新潟県青田遺跡では赤漆塗糸玉、横槌、筌状編物、丸木弓など植物性遺物が興味深い。
 以下、特に目に付いたものを挙げると、兵庫県袴狭遺跡(古墳時代)の船団を描いた木製品。細かい部分は良くわからないが、16隻もの船を描いたこの板は何に使われていたのだろう。石川県の加茂遺跡のボウ字札(古代)はレプリカだったが、意外に文字の残りが良いので驚いた。
 島根県出雲大社境内遺跡(中世)は鉄製品やチョウナ等が展示されていた。また会場では鎌倉期の境内図をもとにした復元模型も展示されているが、本殿にいたる階段は割と急で短いものだった。一方、この日の夜NHKスペシャルでこの遺跡を特集していたが、最終的な復元案は「金輪造営図」をもとに作成されたもで、長大なものである。この違いは何を意味するのか。弥生の建築を参考にしたり、時期の異なる文献を参考にしたりしている。この県に関連して気になるのが、年代が鎌倉時代と出ているのにも関わらず、「古代の出雲大社」と呼ばれることが多いということである。今年のサークルの夏合宿は出雲周辺を予定しており、学園祭でも取扱う予定であるので私自身、考えさせられる問題である。
 なお、今回は東京での地域展は行われていない。昨年の都埋文の土器は仲間内では評判だったので少々残念である。
 江戸東京博物館発掘された日本列島2001

北区飛鳥山博物館「環濠を持つムラ・飛鳥山遺跡」
 この後あまり時間がないのだが、北区飛鳥山博物館で開催中の企画展「環濠をもつムラ・飛鳥山遺跡」を見に行った。飛鳥山3つの博物館(北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館)の敷地として調査された遺跡で、弥生時代中期の環濠集落を中心とした展示である。

6月10日(日) 「顔がついた土器」展と大森貝塚
 5月13日は東博の醍醐寺展、20日は日本考古学協会総会、27日は考古学会の表面採集(雨で横浜市立歴史博物館見学に変更)、6月3日は民俗学研究会の六月採訪(奥多摩町川井地区)と日曜日といえども休む暇のない日々が続いている。今週(6月10日)は、考古学会の博物館見学で、大田区立郷土博物館、大森貝塚、品川歴史博物館をまわった。

 大田区立郷土博物館では「顔がついた土器−縄文時代の人面付土器を中心に−」という特別展が開かれていた。
 人面というデザインはそれほど特別なものではなく、古今東西さまざまな形であらわれるのであろうが、縄文中期の勝坂式に伴う人面付土器の一群はある程度定型化したものである。つり目・おちょぼ口の顔は驚くほど似ている。今回の展示で改めてそれらが母体をイメージしたものであることを感じた。胴部に手がデザインされているもの、足がデザインされているものなど顔だけではないのである。ほぼ同時期・同地域の人体文が張り付いた有孔鍔付土器も、ある程度まとまった数が出土している。
 ところで、今回の展示では前期〜後期まで幅広い時期の顔付きの土器が展示されていた。最古例とされたのが宮城県上川名貝塚の前期初頭例で中期初頭・前半例も1点ずつ展示されていた。また後期の東北地方の人面付土器や人体文付土器、あるいは人面付注口土器、人面付吊手・香炉形土器などは複数例ずつ展示されていた。私はこれまで前述の勝坂のものしか頭に無く、残りは単発というイメージがあったのだが、それぞれ、それなりの一群を形成していたのだろうか。
 展示品の後には鏡がおかれ、背後も見られるようになっていて、いろいろ観察することができた。図録では一方向の写真しか掲載されないことが多いが、人面の背後に蛇体文のついたものがいくつか認められた。人面付土器と蛇あるいは蛙との関係はしばしば指摘されていたが、より具体的な関係解明が期待される。また、各時期・各地の人面はそれぞれの時期・地域の土偶の表情とよく似ている。一方で、全く異なった表情を持つものもある。あとは出土状態である。特殊な例は解説プレート・図録にも明記されているが、その他はどうであったのか気になるところである。
 なお、午後の講演会の準備でお忙しい中、学芸員の加藤さんに展示解説をしていただいた。以上のメモの多くは加藤さんのお話を聴きながら思いついたものである。決してこの展示だけで全てわかるというものではないが、いろいろ考える糸口を与えてくれる展示である。この特別展は7月15日まで。入場無料、図録もカラーで900円である。

 バスで大森駅まで向かい、昼食を食べ、一行16人は大森貝塚へ。まず大田区側、NTTの建物脇の縦書きの「大森貝墟」碑へ。ここは狭いので写真をとってすぐに品川区の大森貝塚遺跡公園へ。横書きの「大森貝塚」碑で記念撮影し、公園内をまわったり一休みしたり。両地とも国指定史跡だが、本来の大森貝塚は品川区側であったことがわかっている。こちらの公園にはモースの胸像やモース生誕地ポートランド市と品川区との姉妹都市提携記念碑、あるいは波のレリーフ(公園入口の説明板を見るまでわからなかったが、当時は海岸近くであったことを示す)、貝層標本、貝塚調査区を示す小石の表示などがある。特筆すべきはトイレや歩道に縄文をはじめとする土器文様がデザインされていることである。まさか、巨大な原体を転がしたわけではないだろうが、かなり細かい縄目まで見えて楽しい。

 ここから5分くらい歩くと品川歴史館である。大森貝塚と品川宿が2大テーマだということだが、大森貝塚の方はあまり面白いものではなかった。展示品も東大のレプリカであり、数も少ない。品川区で隣接地を掘った際にはあまり遺物はでなかったのだろうか。
 一方で、品川宿の方は、スクリーンに映像を映すため部屋が暗くなると同時に品川宿の町並み模型も家々の明かりがついて夜の景観を呈するなど、なかなか面白い。2分で行う土器復元パズル(本当の復元作業は1つ1つ破片をつなぎ、最後に形にするのだろうが)や水琴窟のある庭園もあり楽しめる。

 大田区立郷土博物館 大森貝塚遺跡公園 品川歴史館


5月19日(土) 「呪いと占い」
 今日はサークルの仲間たちと川崎市民ミュージアムで開催中の企画展「呪いと占い」を見に行った。
 これは民俗社会に受け継がれてきた「超自然的世界」をコントロールする知識体系としての呪いや占いを「願望を満たす」「災難を除ける」「未来を覗く」という3つの視点から取り上げたもので、江戸期〜現在までの資料が展示されていた。私が興味を持った資料をいくつか書き留めておきたい。
 1つは甲州で発行された疫病退散令状。役所発行の公文書で病人の枕もとで読み上げられたという。また予言獣と総称していいか分からないが吉凶を予言したり、その姿を見たものは災いを避けるなどという伝承のある怪物の刷り物。これは、人面と獣の一部などを稚拙に合成しているのだが、それが逆にそれが面白い。またそうした伝承が広く知れ渡り様々な怪物が描かれたことも興味深い。戦時中の出征兵士や防空壕のための祝詞などもじっくり読むと言葉遣いなどが面白い。さらに今回は高知県物部村のいざなぎ流の祈祷の場が再現されていた。切り紙による様々な形の御幣は1つ1つが神などを表しておりその複雑さに感動した。人相や家相関係の資料もじっくり読むと面白い。 なお、最後に御籤が用意されていたのはいい演出である。ちなみに私は大吉であった。

 また、同時に写真ギャラリーでは「デジタルプリントでよみがえる笠倉家の乾板写真」と題した写真展が行われていた。これは同市の笠原家から寄贈された写真乾板をスキャナーでデジタルデータとして取り込み、フォトショップで整え、プリントアウトしたものである。プリントアウトされたのは保存状態の良い約100枚だということだが、写真の一部はWeb上で公開されている。オンライン公開と写真展という試みは國學院大學の学術フロンティア事業でも参考になるだろう。

 明日は日本考古学協会総会です。午後は祭祀考古学会の売り子をすることになりそうです。お暇な方はお立ち寄りください。

 川崎市民ミュージアム企画展「呪いと占い」デジタルプリントでよみがえる笠倉家の乾板写真


5月1日(水) 歴博企画展「縄文文化の扉を開く」
 横浜につづき、5月1日は佐倉へ行ってきた。歴博で開催中の企画展「縄文文化の扉を開く−三内丸山遺跡から縄文列島へ−」が目的である。普段は一人で行動することが多い私だが、今回はサークルの仲間と一緒に車で行くことになり、楽しい一日を過ごすことができた。
 1人遅れてくることになり、先に常設展を見ることになったのだが、1時間以上縄文の部屋で過ごしてしまった。行かれた方はご存知だと思うが、中央に有名な土偶のレプリカが展示されているコーナーがある。この中に甲斐黒駒出土の土偶もあるのだが、なんと足がつけられているのだ。しかも短足でO脚。おちつきが感じられないのだが、どのような根拠で復元したのだろうか。このような感じで展示品についていちいち話していたので中々先に進めない。やはり歴博は広い。未だに考古と民俗以外の常設展示はじっくり見ていない。結局先に昼を食べることにして、食後は企画展から見ることにした。

 企画展は、三内丸山遺跡出土品が中心で、大きく歴博所蔵品と青森県所蔵品とに分かれる。歴博所蔵品は土器が多い。また青森県所蔵品は中学生の頃からお馴染みの資料が多く、私には目新しい資料というわけではなかった。ただ土器については、再び見ると以前よりは細かく観察できるようになっているのが実感できる。
 ところで、今回展示プロジェクト委員代表の阿部義平氏により新たな集落復元案が模型として出された。これについては今後詳しい説明があるものと思われるが、従来無意識に中心地と目されてきた野球場建設予定地より少し西側に集落中心地を考えている点は注目される。阿部案は従来の復元案と比べると圧倒的に住居数が少ない。図録には青森県作成のの復元模型の写真も掲載されているが両者の差は大きい。また、今回例の六本柱についても高さ16mの草葺の建物として復元案が出された。性格については言及されていない。模型(あるいは鳥瞰図)として具体的に示す方法は、初心者には非常に分かりやすく、こうした展示では必要なものであろう。だが、それは一方ではイメージを固定させてしまうという危惧もある。いずれも想像復元であり、絶対確実なものではない。今回の新案が調査の進展によるものなのか、研究者の考えの違いなのかはともかく様々な復元案が模型として示されるのは、そうした観点でも意味のあることであろう。
 この他、大湯、寺野東、桜町、上野原、横壁中村や深沢、池内、御所野、北黄金、居徳、槻の木、虫内3など、比較という観点で各地・各時期の遺跡の資料も展示された。

 歴博のミュージアムショップは友の会直営になり歴史書の品揃えは県内一だとか聞いたような気がするが、やはり充実している。特に全国の博物館の図録が置かれているのは有り難い。歴史・考古・民俗系では東博の品揃えを凌ぐ。ついつい買いこんでしまった。
 国立歴史民俗博物館企画展「縄文文化の扉を開く−三内丸山遺跡から縄文列島へ−」


4月30日(月) 「大古墳展」と大塚遺跡
 椿井大塚山古墳および黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡を中心とした畿内の古墳をテーマとした「古墳からのメッセージ2 大古墳展−ヤマト王権と古墳の鏡−」が横浜市歴史博物館で開催中である。京大・橿考研の所蔵品が一堂に会するこの大古墳展は香川県・神戸市・横浜市・茨城県・岡崎市を巡回する。横浜では先に古墳からのメッセージ1として「横浜の古墳と副葬品」を開催していたのだが、キャンパスのすぐ近くにありながら見に行く機会を逸してしまっており、今回も終了間際にようやく行くことができた。
 まず、纏向遺跡・ホケノ山古墳からはじまり、椿井大塚山・黒塚の同氾鏡・同型鏡や同時期の他の中国鏡がずらりと並ぶ。つづいて桜井茶臼山やメスリ山・石山・島の山などの鏡、玉杖、石釧・車輪石・鍬形石、鉄製品、玉類、さらに馬具や武具のコーナーが続き、藤ノ木古墳などの後期古墳、石舞台・高松塚・キトラなどの飛鳥の王陵に至る。企画展示室には入りきれなかったらしく体験学習室に埴輪や古墳に立てられた木製品が、1階ロビーに木棺や調査史のパネルが展示されていた。
 私は古墳や鏡のことは全く分からないが100枚以上の鏡を眺めていると、当時の人たちは鏡に描かれた中国の神や獣をどのように理解していたのか?、文字(銘文)は理解していたのか?、同氾・同型の鏡が各地に存在することをどう考えていたのか?、大きさの違いは何を意味するのか?などの疑問を抱く。少し勉強せねばなるまい。
 この博物館は港北ニュータウンのど真ん中に位置し、遺跡群の中で例外的に残され公園化された大塚・歳勝土遺跡(国史跡)が道路をはさんで隣接している。大塚遺跡は弥生の環濠集落として有名だが哀れなことに半分ばっさり切り取られている。残った部分の環濠や柵、住居、倉庫などが「復元」されているが、ムラ全体の様子はなかなかイメージできまい。歳勝土遺跡は方形周溝墓群で何基かが復元されている。もっとも上の部分は不明なので木棺が剥き出しになっているところまでしか復元されていないが、これが考古学の限界なのだろうか。それでも、ちびっ子たちが熱心そうに廻っていたのをみると、少しでも活用されているんだなあと嬉しくなる。奥には民家も移築されているとのことだったが、雨が強くなり始めたので早々に切り上げることにした。
 横浜市歴史博物館特別展 古墳からのメッセージ2―大古墳展 ヤマト王権と古墳の鏡大塚歳勝土遺跡公園


4月29日(日) 近況
 ご無沙汰しております。
 2年生になりまして、サークル年間計画やら新入生の勧誘やら、あるいは履修やらで忙しい毎日でございました。その間、青森遺跡探訪の閉鎖というショッキングなこともあって、なかなか何か書く気になれなかったのですが、気付けばもう4月も終わりですのでこの一ヶ月に考えたことなど2つほど書いておこうと思います。

 まずは、サークルの勧誘について。
 昨年は先輩たちがビラを配ったり幟をあげたりして盛んに勧誘活動を行ったわけですが、結局いまの2年生、つまり私の学年のメンバーはそんなものには関係なく自発的に入ってきた者ばかりでした。それなら今年はあんまり派手にやらなくても志のある人はきてくれるよね、ということで今年は出店も出さず、ビラ配りもせず、適当にポスターを張るくらいのことしか行いませんでした。まあそれでも、それなりに(10人程度か?)部室に来てくれました。ところが、日本文学科とか中国文学科などが多く、当然来るだろうと思っていた史学科の子はあまり来てくれませんでした。史学科でなければ駄目だとかいうつもりは毛頭ございません。むしろ、そういった文学系の人が関心を持ってくれたというのは興味深いことであります。また、関心ある時代というのも中国の古代とか、日本の中世、近世などで考古学=縄文・弥生・古墳というのは古いイメージなのかなあ、それなら考古学ってどういう風にイメージされているんだろうか、などと感じてしまいました。なお、勧誘の成果については省略させていただきます。

 次に青森遺跡探訪の閉鎖で考えたこと。
 考古学系サイトの老舗であり、多くのサイトの目標でもあり、地域情報の発信という点で高い評価を得ていた同サイトの閉鎖は非常に残念でなりません。閉鎖の理由についてはよく分かりませんが、最近の状況を考えると次のようなことが言えるのではないでしょうか。
 1つは、インターネットと現実とが以前に比べ密接な関係を持つようになったこと。具体例はあえて出しませんが、いろいろなことがWeb上だけの問題ではなくなってきているということです。
 もう1つはこういう状況の中で、公的機関のサイトがそれなりに機能し始めてきていること。かつては公的サイトの不備を私的サイトが補完するという状況でしたが、で役立つ情報を発信する自治体・埋文センターなどのサイトが着実に増えてきています。この流れをさらに拡大し、遺跡の情報などはできるだけそちらで公開されるような状況になるようにすべきでありましょう。

 今日からゴールデンウィークです。今日は母のお供で西武ドームへ行ってきました。私自身西武のファンというわけではありませんが、9回裏のホームランは感動的でした。あまり遠出はできませんが、ゆっくり体を休めつつ、博物館などをいくつか廻れればと思います。

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